■■最新更新分■■


+++誰も触れてはならぬ  続  (アシュ←ルク)





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 障気を中和しローレライを解放した後、ルークはファブレの屋敷へとアッシュを伴い戻っていた。レプリカなのでファブレにいることはできないのではないかと思ったが、外の暮らしをよく知らないルークには戻るしか選択肢を見つけることができなかった。両親は快くルークを出迎えてくれ、何事もなかったかのようにもとの暮らしへと戻った。アッシュはファブレに戻ることをよしとせずにそれでもルークの側にいることを選び護衛騎士としてルークの隣にいることを選んだ。
 両親は不満そうだったが、反対すれば二人とも出て行きそうな予感にひとまずはそれでよしとしているようだった。今日も平和な一日が始まったと思っていたが、麗らかな日差しに似合わぬ音が聞こえる。ルークは部屋の扉を開けた。

 中庭から剣の打ち合う音が響いていた。普通ならば何者かの襲撃か?と緊張をすべきところなのだが、平穏が戻ったことが日常となった今ではそんなことも思うこともなく。どこか楽しげな響きのする打ち合う音にルークはのんびりと扉から出て、部屋前のテラスから音のする方を眺めた。部屋を出ると二人の挑発し罵り、怒鳴りあう声までが聞こえてくる。しかしどこか楽しげである。
 中庭の広場でガイとアッシュが剣の稽古をしているようだ。明日にはガイもグランコクマに帰るというので、練習のやり収めといったところだろうか。ルークもガイとアッシュに剣の練習をつけてもらい、そこそこ腕を上げたと自負していたが、二人の打ち合いを見るとどうやら手加減をされていたようだった。アッシュの楽しげな様子を見るとあれくらい相手ができればと羨ましく妬ましくなった。
「ガイのばか……」
 ルークは口の中で呟いて、聞こえる声の応酬はあまりよろしくない言葉ばかりだが、とても仲の良い二人に嫉妬の視線を投げた。ルークの仲が良くて羨ましいというルークの言葉を、ガイとアッシュは口を揃えて否定する。全く持ってそんなことはない。きっと中庭を囲む回廊のあちらこちらで二人の剣技に見入っている白光騎士団の面々もルークの意見に賛成するだろう。
 そういえば回廊にいる警備兵の数がいつもよりはるかに多い。休憩中の騎士も見物に出ているようだ。それほどに見る価値のある剣技であり、ルークはそんなアッシュが自分の護衛騎士になったのだということがとても鼻が高く。同時に惚れ惚れとした視線を投げかけるメイドや騎士達に対して、どういうわけかわからないが仕事を怠けているように感じた。
「……見てるんじゃねぇよ」
 口をついて出た言葉にルーク自身が驚いた。その声に反応したようにアッシュの視線がルークで止まった。視線が交差してルークの心臓が高鳴った。アッシュの気がガイ以外に散ったことを見逃すはずもなくガイが素早い動きでアッシュの身の内に入った。
「アッシュ!!」
 アッシュの危機にルークは手に汗を握りテラスから身を乗り出した。ルークの心配を他所に、咄嗟にアッシュはそれを交わしガイとの間合いを取った。ルークはホッとして肩の力を抜いた。まだ心臓が高鳴っていた。もっとアッシュの危機的状況というものを知っているというのに、平和ボケしているらしいルークの心臓は些細なことでも早鐘を打つようになった。特にアッシュに関係することに対しては一緒にいられるという安堵からだろうか、一時など病かと思うほどに高鳴るのだ。
 ルークは落ち着かせようと深呼吸をしてから目を中庭へと戻した。鍔打ち合う音がまた激しくなっている。練習にしても激しすぎやしないかとルークは思うのだが、楽しそうな二人の様子に止めることもできない。はらはらとして手に汗を握ってルークは見守るしかできなかった。
 アッシュのしなやかな筋肉の動き、風を切って流れる長い髪。不遜な笑み。惚れ惚れとして見てしまうのは仕方ないだろう。ルーク自身も目が離せなくなっていた。高鳴る心臓が一向に収まる気配がない。見ているだけでこの不整脈ではとてもではないが、アッシュとまともに打ち合うなど夢のまた夢かもしれない。
 アッシュと共にアルバート流を極めるべく訓練を積んでいるが、重い剣に振り回されている状態だ。アッシュのレプリカなのにと不甲斐ない思いばかりが募る。今までまともに訓練してなかったのだから仕方ないとガイとアッシュは慰めてくれるが、アッシュとまともに打ち合うには後何年かかるのか想像しただけで気が遠くなりそうだ。ガイが剣の軽いシグムント流に変更してはどうかと進言してくれた。少し本気で考えた方がよさそうだ。アッシュはとても反対していたが、グランコクマから毎月と言わずに毎週でも練習に通ってくれるとまでガイは言ってくれた。
 なんといっても「アッシュのアルバート流の弱点を補う流派だぞ」と言うガイの説得の言葉には一度は断った今でも心が惹かれている。それ以外にも訓練で合宿とかいう宿泊で鍛錬を積んだりもするらしい。とても気にはなっているのだが、アッシュの機嫌がどうしようもないほど悪くなったのでその話はできないでいる。
 ガイがグランコクマに帰ってしまっても、その合宿とかいうものでガイと会えればいいのに。そのうえアッシュとガイに稽古をつけてもらえるのだととしたら是非ともそれをやってみたいのだが……とても太刀打ちできそうにもないので諦めるべきか。ルークはため息をつき、早鐘を打つ胸に手を当てたまだ痛い。
 そこでアッシュの剣が宙を舞い勝負はついた。が、アッシュはガイも飛んだ剣も一顧だにせずにテラスのルークの元へと駆け寄った。
「どうかしたのか?!」
「え?」
「痛むのか?」
 アッシュは胸へと手をやった。アッシュの動きにルークは己の胸をみて手をあてていたことに気付いた。
「あ?ああ……違うよ。さっきちょっと驚いただけなんだ。それだけだ。せっかくの勝負の邪魔をして悪かったな」
「体調が悪いわけでないのならいい……」
 アッシュはほっとしたように笑みを浮かべた。正面で受け止めたアッシュの笑みにルークはまた心臓が痛むほどに早くなってしまった。恥ずかしくなって目を反らした。ガイが剣を回収してこちらへと歩み寄ってくる。
「アッシュ……」
「せっかくの勝負、俺が邪魔したみたいだな。悪かったガイ……」
「邪魔なんかじゃないさ。ルーク。俺の実力で勝ったんだからさ」
 ガイはさわやかな笑顔でアッシュへと剣を返しながら、やはりルークの護衛騎士として残った方がいいのではないかと未練を見せた。アッシュが不満げに鼻を鳴らし、剣を鞘に戻した。
「てめーがいなくてもルークに傷一つつけさせねぇ」
「大丈夫だって!アッシュは強いんだぜ。もちろんガイも強いけどな。伯爵家を復興させなきゃいけないんだろう?いい加減に戻らないとまたとり潰されちまうぜ」
 汗を滴らせながらガイはそれはそうなんだが……と心配を隠さない。
「いつまでもぐだぐだうるせぇ……さっさと帰りやがれ……」
 アッシュも汗をぬぐいながら憎まれ口を叩く。汗で張り付いたアンダーシャツが筋肉の動きを露わにしてルークはまた胸がどくんと高鳴った。また不整脈に戸惑う。
「あ、汗でも流して来いよ。何か冷たい飲み物を用意させておくから……」
 ルークは慌てて背を向けてその場から離れようとする。
「ルーク?」
 アッシュが怪訝そうな声で呼んでいたが、ルークは気づかぬふりをして回廊にいるメイドの元へと向かった。



 背中をアッシュの視線がついてくるのを感じた。
 頬が熱い……たぶん上気している。この前から少し変だ。アッシュを見ていたいのに見ているとこんな風に心臓が勝手に走りだしてしまう。アッシュの動きや声に翻弄されてしまう。側にいて欲しいという願いは叶っている。気がつけばアッシュの姿を探している己に気付いたのはほんの数日前だ。アッシュばかりを見ているとガイにからかわれてそれで気がついた。ずっと見ていて飽きない。見ていたい……またアッシュの姿を探して回廊を視線が彷徨っていることに気付いた。
「ルーク様?」
 目の前にいるメイドが心配そうに声をかけてくれた。
「お熱でも?」
「いや……なんでもない」
「アッシュとガイに冷たい飲み物を用意してくれないか?」
「かしこまりました」
 やはり上気しているらしい。恥ずかしくなってますます血が上った。メイドはそれ以上深入りすることもなく深々と頭を下げた。ルークは火照る頬を両手で包み深呼吸をした。もうアッシュとガイは浴室へと向かっただろうか?姿を探しておいて会うのが躊躇らわれるというのも変な話だが、こんな顔を見られるのはかなり恥ずかしい。
 回廊を見渡して二人の姿がないのを確認してからルークは部屋へと向かった。アッシュの姿を見ることがなくて訪れたつかの間の心の平穏。なのに物足りない……





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 ガイがグランコクマへと旅立ってしまい。もうテラスでアッシュとガイの鍛錬を覗き見ることもガイがいなくなるとなくなるのかも……とルークは少し寂しくおもったりしていた。だが、もし練習に付き合えとかアッシュに言われたら即答で了解するつもりだった。こっそりと返答の想定もしてみたり、アッシュが誘いずらそうにしているならルークから誘ってみようかなどと朝のベッドの中で考えていた。そんなルークの夢想は現実になることもなく。逆にいつもならもうアッシュとガイが中庭で練習をしている時間を過ぎても、アッシュは来ない。ガイとの練習がなければルークはアッシュの顔を見ることもできない現実にルークは落ち込んでいた。もう朝食の時間がこようとしていた。
 何か他の仕事でも入ったのだろうか。そんなことを思いながら耳は扉の向こう中庭へと集中する。
「アッシュさんが手合わせしてくれるらしい」
「本当か?!中庭……じゃないな」
「バカ、俺達が中庭でできるわけないだろ。訓練場だ」
「あー当番の時間終わるまでいらっしゃるかな?」
「さぁな」
 巡回する騎士達の噂する声が聞こえた。期待に満ちた声が子供のように弾んでいる。ルーク以外にもアッシュに練習をつけてもらいたい人は数多くいるらしい。そしてルークよりも行動が早かったようだ。
 ルークの期待も空しくアッシュ争奪戦から脱落が決定したようだった。ルークは噂には聞いていた敷地内にある訓練場へと向かうことにした。未だに人に会ったり触れたりすることは怖い。だが遠くから見るくらいなら大丈夫だろう。ガイのときのように中庭ですればいいのにとならば部屋のテラスから見ることができた。前と違い決まったところ以外にも出てもよいとはわかっていても長年の習慣はなかなか変えることができなかった。アッシュに引きこもりだと笑われてもまだ部屋から出ることに慣れていないのだ。
 訓練場はルークの部屋からは裏を回ってぐるりと回りこんでいくことになる。玄関ホールからだと近いとガイに聞いたことがある。近くになるに従って声と金属の打ち合う音が聞こえた。彼らもガイがいる間は遠慮していたが今は生き生きとアッシュの指導を受けているらしい。
 訓練の邪魔にならないようにこっそりと覗く。レベルが高すぎてルークにはとてもついていけそうにない。正直へこんだ。それでもアッシュを見ていることはやめられなくてルークの目はアッシュを追う。厳しい表情で剣に打ち込む姿もかっこいい。
 一瞬アッシュと目があったような気がした。アッシュの口の端が緩やかなカーブを描き、技の切れが良くなった。第七音素か光を纏い眩くて見ていられないような錯覚を覚える。こういうのをなんというのか先日メイド達が噂していたのでルークも知っている。『キラキラしてる』と言うのだそうだ。
 アッシュがキラキラして見ていられない。太陽を直接見て眩暈を起すのと似ている。
 ああ……もう駄目だと……
 ルークは踵を返した。心臓が痛くなってきた。この間からどうもおかしい。壊れる予兆なのだろうか。アッシュを見ているとどうしようもない動悸と衝動が波のように押し寄せてくる。アッシュのことを見ていたり考えたりすると酷くなる。そう言えばジェイドが完全同位体にだけ起きる現象の話をしてくれたことを思い出した。
 もしかしてそれが起きているのだろうか?それとも前からときどき起きる知らないうちに体が動いていたりしたあの『壊れる』がやはり進行しているんだろうか?こんなに長く生きたレプリカはいないからどうなるのかジェイドにもわからないと言っていたことはまだ記憶に新しい。
 いつまでこうやっていられるのだろうか?また何もかも忘れてしまえばルークはまた新しいルークとしてここにいるんだろうか?そのとき自分はどうなるのだろう。アッシュを覚えていられるのだろうか?アッシュがせっかく一緒にいてくれるようになったというのに白痴になったルークを見て呆れられないだろうか。
 不安はどんどんと膨らみルークは振り切るように走って部屋へと逃げ込んだ。
 
 


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 数年ぶりの屋敷に眠れぬ夜を過ごした朝にルークの部屋へと行ってみればルークはまだベッドで眠りの中だった。
 昔読んだ絵本にあった眠り姫のようにベッドで心地よさそうに眠るルークを起こすのは少し忍びない気持ちになった。いや眠り姫だとしても起こしてしかるべきなのだが、アッシュは己の思考に突っ込みを入れながらベッドで眠るルークを覗き込んでいた。こんなに近づいても気づきもしないというのは少し危機感が足りなさすぎだとルークに怒りを覚えつつ、確か眠り姫を起こすのは口づけだったな。と思い至りアッシュはルークのみずみずしい唇に視線を落とした。気付かぬうちにその距離はあと数センチにまで迫っていた。我に返りアッシュは一人赤面をした。誰に見られているわけでもないがアッシュは慌てて姿勢を正した。
 清らかな朝日の下でルークの唇はアッシュを求めているように見えた。
「ルーク……朝だぞ」
 小さな声でルークに呼び掛けるが起きる気配はない。
 アッシュの煩悶を素知らぬ顔で安らかな眠りを貪るルークに軽く触れるだけのキスを落とした。それでもルークは眠りから覚めることはないことに安堵しつつも、目覚めないことにいら立つ。回廊を渡る足音が近づいてくることにアッシュは気づいた。
「起きろ!」
 アッシュは声を荒げてルークに怒鳴りつけた。こんな愛くるしい寝顔を他人に見せたくないと言うあまりにも幼い独占欲に苦笑しか浮かばない。ルークはアッシュがそんな独占欲ばかりだと気づいているのだろうか?アッシュはそんなことを思いながらルークの睫毛が震えるのを見ていた。
「おはよう……アッシュ」
 澄んだ翠の瞳がアッシュを捉えて喜びを浮かべるのに満足感を得てアッシュは部屋の窓を開きに向かった。窓を開くと涼しい風が吹き込んだ。ベッドで動く気配がないので振り返るとルークは先ほどと変わらぬ姿勢のままで瞼が眠そうに落ちようとしていた。
「そのまま寝ようとするな。お前が朝に弱いというのは意外だったな……」
 もぞもぞと瞼を手の甲で擦りながらルークは体を起した。
「いつもはそんなことないんだ。昨日はちょっと眠れなくて明け方になってようやく眠れたんだ……」
 アッシュの言葉を侮蔑ととったのかルークは恥ずかしそうに言いつのった。幼い仕草では説得力に欠けていた。アッシュはふんと鼻で笑い飛ばした。昨夜は久々の帰郷で興奮していたのだろう。両親に面談し初めて側近くに立つのだと興奮気味に言っていたことを思い出した。
「そんなに嬉しかったのか?」
「嬉しいというより緊張したというのかな?なんだろう……絵では見慣れてたから初めてってわけじゃないし、遠目にも拝見したことあったし……ああいうのは嬉しいって言うのかな?わからない」
 ルークは本当にわからないらしく困惑の表情を浮かべた。物思いに一時耽ったあとそれを振り切るように顔を上げた。
「ガイは?」
 アッシュは聞きたくなかった名前に一瞬舌打ちをしかけたのをぐっと堪えた。なんともない風に不在の理由を述べた。
「今日はまだ城の方でジェイド達と用があるらしいから来なくてもいいと言っておいた」
「そっか……」
 ルークは残念そうな顔をして、ベッドから降りると着替えをするためにクローゼットルームへと向かった。水音が聞こえるところを見ると洗面の施設も付いているようだ。この部屋はここだけで独立して生活をできると言うのは本当らしい。そうしている間にメイドの声がした。アッシュは応対に出る。ここにいるのは子息として戻ってきたわけではない。あくまでルークの護衛騎士としての立場を忘れるわけには行かなかった。ワゴンが扉の前にあった。事情が呑み込めないアッシュの様子にメイドは笑みを浮かべてルークの朝食だと伝えてきた。
「ガイはいないのかしら?」
「ああ」
「では給仕はどうしましょう……ガイがいないことなんて初めてだわ」
 メイドはうろたえた様子でそれだけを言うが、自分がするという選択肢は初めからないようだった。逃げ帰りたいというように今にも踵を返しそうだ。
「誰か……聞いてきます」
 アッシュの予想通りメイドはワゴンを置いたままで来た廊下を戻ろうとする。『触れてはならぬ』は『見てもならぬ』なのかというほどにこの屋敷の者達は昨夜からルークの前に出ることが少ない。それは畏怖というよりも恐怖に裏打ちされているようにアッシュは感じていた。
「いや、俺がしよう。詳しいことはルークに聞けばわかるだろう」
 アッシュの申し出にメイドは明らかな安堵の笑みで深く頷くとお願いしますと言った。ワゴンを押して部屋に入るとクローゼットルームの方へと声をかける。
「おい……朝は独りなのか?」
「受け取ってくれた?」
 クローゼットの入り口で声をかけると中からルークが答える。
「ああ……で、独りで食べるつもりなのか?」
「食事は隣の食堂で食べるんだ。ちょっと待って……」
 ルークは上着を着ながら部屋から出てくる。ワゴンをルークは戸惑うこともなく押して隣の部屋へと運んだ。食堂といっても給仕や簡単な調理ができる施設が整っており、ちょっとした台所となっていた。ルークは食器棚から食器を取り出すと部屋の真ん中にある大きなテーブルの上に並べると満足そうな笑みを見せた。
「独りで食べるつもりか?」
 並んだ食器は一人分だけだった。ワゴンの中もアッシュの分があるようには見えなかったがどうしても一人で食事をすることに慣れきっているルークに一言いいたくてアッシュはつい不満気な声を出してしまった。
「え?」
 ルークは驚いた表情でアッシュを見返した。困惑がその顔に浮かんでいた。
「独り占めしようとかそんなんじゃないよ。あの……アッシュは食堂にあったと思うんだけど……」
 どうやら独り占めするつもりかと言われたように勘違いしたらしい。そういう意味ではなく独りで食事をするつもりかと尋ねたつもりだったのだが、あまり言いたいことが通じなかったようだ。だから一緒に食事をしようともアッシュも言えるほど素直な性格ではなかった。
「ここも食堂だと今、お前から聞いたと思うが?」
「ここは俺専用……」
「で、独りで食べるつもりか?」
 アッシュは通じないことに不機嫌になってしまい、同じ言葉を繰り返した。ルークは言われている意味がわからずに首を傾げていた。
「お前は……」
「あー!アッシュが給仕してくれるのか?」
 ルークは思わず両手を打っていそいそと席に着いた。ルークは席に着きながらも落ち着かないのかそわそわとしてアッシュとワゴンを何度も交互に見ていた。いっこうに動く気配のないアッシュに痺れを切らせたように言った。
「アッシュは朝食は済ませたのか?もしまだだったら」
「まだだ」
 アッシュはやっとわかったかと表情が緩むのを抑えられなかった。
「やっぱり!」
 ルークは嬉しそうに笑って、慌てて席を立つと食堂を案内しようとアッシュの腕を引いた。
「アッシュの使う食堂はあっちにあるんだ。案内する。この屋敷は久しぶりだもんな。わかんないよな。ちゃんと教えておかなくて悪かった。あっちならメイドがちゃんと給仕してくれるし……」
「そうじゃない……ガイはいつもどうしていたんだ?」
「ガイ?ガイは先に食べてたんじゃないのかな?ガイたちの食堂は別にあるって聞いたことがある。アッシュは使用人じゃないんだし今からいく食堂だと思う……たぶん……」
「お前の護衛なんだから使用人だろ?」
「それは昨日話をしただろ。アッシュは俺の護衛騎士だけど違うの!」
「まぁその話はいいとして、俺が聞きたいのはお前は一人で食べていたのかということだ。ガイはその時どうしていた?」
 アッシュはルークの腕を引きもどして立ち止る。
「ガイは俺の給仕をしてくれてた、そこから皿に盛って後の皿を洗って片づけもしてくれた。食べ終わったらワゴンは外に出しておくんだ。俺はワゴンには触れないようにしてた。もう触ってもいいんだよね?」
「ガイは一緒にはいても共には食べないのか?」
 ルークはとんでもないと慌てて首を横に振った。そんなことをしてもしものことがあったらどうするのだと顔色を変えた。
「だが、今はそんな心配もいらない。俺も一緒に食べる。一人の食事ほど味気ないものはない」
 アッシュはルークの席の前に座った。ルークは慌ててもう一組食器を用意した。もともと一人分の食器しかないために代用できる食器を出したのだろう不揃いではあったがテーブルにこんなに食器が並んだのははじめてのことなのだろうルークが感慨深げにしげしげとテーブルの上を眺めていた。
「あ、そうだ……最近飲んでなかったから忘れてた」
 ルークは先ほどとは違う棚の前に立った。
「えーと今日は何曜日だっけな……」
 ルークは久しぶりだなぁ。いつも通りでいいのかなぁなどと呟きながら壜を取り出した。薬瓶が棚に並んでいる。アッシュはラベルを覗き見た。
「何の薬だ?」
「さぁ?」
 ルークの手の中にあるラベルを見てアッシュは血の気が引いた。毒薬の名前が書いてあった。ずらりと並んだ壜の名前はどれも毒薬の名前だった。誰に対してなのかわからないが屑がっ!と悪態が口をついて出た。怯えたように肩を震わせるルークからアッシュは壜を奪い取り棚へと戻した。
「なんだよ……乱暴だな。曜日が違ったか?」
 あの壜に入っているものをルークはどうやらわかっていないらしい。
「てめぇ……あれは毒薬だ。今飲めば死ぬぞ」
「え?」
 疑うようにアッシュと棚に並んだ壜をルークは見比べた。
「だって毎日飲んでたんだぜ?」
 苦笑を浮かべてのルークのそんなはずないと言う否定の言葉にアッシュは舌打ちをした。
「ガイは知ってるのか?」
「知らないと思う。昔、医者に誰にも内緒だって言われた。棚もガイが開けない棚だし……」
「だろうな……ラベルが読めるなら飲ませないか……」
 ガイまでグルになっているとしたらアッシュはガイを許すことができなかっただろう。今度会ったときにどんなにルークが悲しむとわかっていても振るう剣を止めることができないところだった。そうでないことに安堵した。
「なんだよ」
 一人で納得しているアッシュに対して苛立った声をルークが上げた。
「だから毒薬だって言ってるだろう」
 たいしてアッシュも同じく苛立ちを隠さずに棚に並んだ7種類の瓶をざっと見て乱暴に扉を閉めた。
「二度と飲むな。死にたくなければな」
 そしてルークへと向き直ると真剣な眼差しと声で念を押した。アッシュがルークを心配していることがとても伝わってきた。勢いに押されてルークも大人しく頷くしかない。
「う……うん」
「これでどうやってお前があんな体になったのかわかった」
「え?」
「俺も昔に毒への耐性をつけるために接種していたことがある。たぶんお前も物心つくころにそれが再開されたんだ」
「そう言えば毒の体になったのは1年くらいたってからだったってガイが言ってたな」
「もともと俺の毒への耐性があった第七音素がそれ以上の毒に適応して毒化したんだろう……」
 あくまでも想定でしかないが、詳しいことはメガネにでも聞けばわかるかもしれない。しかし今更な話だ。くだらないことで借りを作ることもない。今は同じ過ちを繰り返させないことが肝心だ。
「へぇ……」
 ルークは思わず感心してしまいじっと己の手を見ている。そんなことをしても変化した第七音素がわかるはずもない。それに今は第七音素は正常化している。
「二度と飲むんじゃねぇ」
 念を押すとルークは再び関心したように頷き、名残惜しげに壜の入った棚へと視線をやった。
「誰がお前にこの薬を渡したんだ?」
「先生だよ。日記とは別に飲んでから具合悪くなったらどう悪かったか書いた紙を渡すんだ。そしたら新しく調合したのをくれるからお薬なんだろうなって思ってた。違ったのか……アッシュはすごいなぁ」
 ルークの心から感心したような物言いにアッシュは思わず声を荒げてしまう。
「お前はっ!もうちょっと怒るとかないのか?」
「なんで?」
 何に怒ればいいのかわからないらしくルークは素直な瞳をアッシュへと向けた。アッシュ自身怒ったところで仕方ないことは理解している。大事な予言の子を毒殺などされないためだ。国としても仕方ないことなのだと頭では理解できるが……やはりルークにこんな風に背負わせなくてもいい苦労を背負わせた原因には怒りが起きた。
 本人はただ感心しているだけなのだ。ルークは苦い薬を飲まなくていいと聞いて喜んでいるふしがある。アッシュは大きく息をついた。怒りを維持するのは大変なエネルギーが必要だ。
「もういい……」
「アッシュ……」
 ルークへ背を向けたアッシュへルークが不安そうに名前を呼んだ。
「もういいから朝食にしよう」
「う……ん」
 アッシュがルークの髪を宥めるように撫でつけた。
「ご飯食べよっか……」
 ルークは気恥ずかしくなってちょっとはしゃいだふりをしてアッシュを席に着かせた。
 不揃いな食器にルークのために用意された食事を二つに割って二人で仲良く食事をする。初めはアッシュが給仕をしようとしたが、ルークが量が多いと盛り付けに対して何度も注文をつけるために結局はルークが盛りつけることになった。
「お前……それだけしか食べないのか?俺が勝手に来ているんだ。お前の食べたいだけとればいい」
「朝からそんなに食べられない。でも今日はたくさん食べられたな。旅のときも思ったけど誰かと食べるっていいな」
 ルークは本当に満足そうにそういう。ルークのための食事はそのほとんどがアッシュの胃に収まった。
「これからは俺が一緒に食べてやる。いいな。それからもう少し食べるようにした方がいい。剣術の稽古も付けてやるが、そんな食が細いと練習にもついてこれないぞ」
「わかった」
 ルークは愁傷に頷いた。
「チキンとエビならもっと食べられるんだ。だからもっとチキンとエビを増やしてもらう」
 一大決心的にそう力を込めて言った言葉にアッシュは思わず脱力してしまった。
「何か変なことを言ったか?」
「いや、初めはそれでもいいか……仕方ないな……」
 そうかチキンとエビが好きなのか俺も好きだななどと同じ好みに満足感を感じたことは隠して、甘い返答を還してしまったことにガイのことを笑っていられない。




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 まだ朝には早いが起床するには早すぎると言う時間でもない。アッシュはルークの部屋へと向かっていた。昨日のように寝起きが悪いルークを起こすのだ。寝顔を思い出して思わずアッシュは頬が緩んでしまう。
 護衛騎士だからとルークの部屋の近くの部屋を希望したが、隣接した側付きが使用していた部屋は物置になっているという。準備ができるまでは騎士団の宿舎を利用しようとしたのだが、客間を用意されてしまった。過去にアッシュが利用していた子供部屋をあてがわれなかっただけでもマシだったといえる。子供の調度品がそのままの少し恥ずかしい子供染みた思い出の品に囲まれては安眠もできそうにない。
 
 アッシュは回廊から元の部屋の方へと視線を流してふっと息をついた。変わっていないな。ただそれだけしか感じない。熱病のように帰りたいと切望した頃もあったのだが、帰ってきたなという事実しか感じられない。病は癒えたというところか。
 ルークの寝顔を眺めて起こしてやる。それを想起するだけで足が早くなる。後ろから軽い足音が追ってくる。ガイだとわかっていても護衛のためにと理由をつけて剣へと手をやった。
「そちらはルークの部屋だが?何処へ向かっているんだ?」
 ガイはそう声をかけながらその手は剣へと置かれている。居合の呼吸だ。
「ルークを起しに向かうところだ。そういうガイは朝からどうした?」
「俺もルークを起しに行くのが日課だからな」
「ほぉ……マルクトの伯爵さまがか?」
 今まで7年もルークのあの寝顔を眺めてきたと言うのか、これからは俺に任せてさっさと国に帰ればよい。あんな無防備な姿をガイに晒すことはルークの身に危険が及ぶ。護衛騎士として許してはならないと判断した。
「俺はまだルークの使用人のつもりだが?」
「後の心配はいらない。俺に任せてさっさと国に帰ったらどうだ?」
「はっ!そういうお前こそ。子息として戻らないのならダアトに戻ったらどうだ?」
「俺はルークの護衛騎士だ」
 言い合いながら足早にルークの部屋へと向かう。あと少しで部屋のテラスへと入ると言うところでガイがアッシュに啖呵を切った。
「任せられるか!」
「ああ?確かめてみるか?」
 互いに剣を抜いて剣を合わせるによい場所を咄嗟に探す。確か昨日ルークはこの中庭でヴァンから剣の稽古をつけてもらっていたと言っていた。ガイもそれを踏まえてのことだろう中庭の広場へと視線でアッシュを誘った。水路と花壇に囲まれた広場へ踊り出て剣を合わせる。
 アルバート流と対をなすシグムント流と剣を交えるのは悪くなかった。次第にお互いが楽しくなってきているのがわかる。しかし互いに譲るつもりがない真剣勝負なのは変わりはなく。隙をついては互いを攻めあう。早朝の中庭には不釣り合いな音が響いた。
 アッシュとてガイにルークの寝顔を譲るつもりなど毛頭ない。

 ふと気付くと部屋前のテラスからルークがこちらを見ていた。少し楽しそうでもあり不満そうでもある。ガイよりアッシュの方がルークに気づくのが早く、アッシュはガイを捨て置いてルークの元へと駆け寄った。
「起こしてやるつもりだったんだが、一人で起きたのか?」
「だって……この音だもの寝てられないだろ?」
 ルークは苦笑を浮かべた。
「やっぱりガイとアッシュは仲良しだよな……二人で剣の稽古だなんてずるい!どうして俺を誘ってくれなかったんだよ」
 ルークがアッシュの後ろから駆け寄るガイへと羨ましそうに言う。
「「どこがだ?!!」」
 アッシュはガイと声が重なってしまうことを悔しく思いながらも、そらみろと楽しげなルークの笑みを見れたのでよしとした。
「俺も二人と剣の稽古したい。とても今みたいにはできないけどさ……いいか?」
「ああ、もちろんだ。ルーク」
「昔のようにな」
 ガイがアッシュをちらりと見て言う。アッシュは舌打ちで返事を返した。そうこうしているうちに回廊をメイドがワゴンを押してわたってくるのが見えた。ガイがすぐさまそちらへと向かいワゴンを受け取る。
「ルーク!朝食にしよう」
 ガイはワゴンを慣れた仕種で食堂へと運んだ。後を追うルークがアッシュと一緒に食べることにしたとガイに嬉しそうに報告をしているのが聞こえた。ああ、ガイの悔しそうな顔を見損ねた。





 ルークに起床を促し朝食をともにする。ささやかな喜びをガイに阻止され、あの時からルークの寝顔を拝むことができなくなってしまったのは本当に残念だ。毎朝、ガイは律儀に剣の稽古と見せかけてアッシュの邪魔する。ルークがそれをアッシュが喜んでいると思っているらしいことも癪に障る。
 しかしそれもガイがグランコクマに戻りそれを邪魔する者もなくなった。
 心おきなくルークの面倒を見れるというものだ。

 アッシュのささやかな夢見る日常はガイの白光騎士達への「毎朝の訓練をアッシュにつけてもらうといい。俺がいなくなってアッシュも腕がなまるといけないからな」などという余計な気遣いのために消えた。


 ファブレを護衛する騎士が強くなることにはアッシュも反論はない。むしろ喜ばしいことだ。だから早朝に訓練をつけてくれないかと請われた時に即座に断ることができなかった。ガイの差し金だとわかっていたなら即答したものを……後でわかって悔しがってもガイの思う壺だろうから悔しがりもできない。
 ガイとの私闘と違い中庭でするわけにもいかず、いや私闘を中庭でしていたこと自体が問題なのだが。どういうわけか問題にされることもなくルークに至っては毎朝それを楽しげに見学していたほどだ。稽古を一緒にするというルークの希望もまだ剣を合わせるところまでは行きついていない。近いうちにアッシュはそれも叶えてやろうと思っている。

 ともかくガイの進言により朝、白光騎士団専用の訓練場にて訓練をつけることになってしまった。ますますルークが遠いではないか。さっさと終わらせてルークを起こしに行き一緒に朝食を食べる。アッシュは目の前のご褒美のために黙々と騎士達を打ち負かしていく。
 
 視線を感じた。
 アッシュはそっとそちらを窺う。訓練場を囲う塀の影に朱い髪が見える。ルークが壁の影からこちらをうかがっているようだ。ルークの部屋からは遠いこんなところまで足を延ばしてくるなど考えられないことだった。アッシュは剣を打ち合いながらルークの姿を確認する。
 間違いない。人影に怯えながらもアッシュの姿を懸命に追っているのがわかった。
 毒の体ではなくなったとはいえ、ルークは人と触れ合うどころか人に会うことにまだ慣れずにいた。神経質なほどに人と会うことを避けているのだ。屋敷の中といえ自由に歩き回ることもない。そんなルークが普段足を踏み入れることのない場所にまで来ていることに驚いた。
 アッシュはさっさと終わらせてルークの元へと気が急いだ。打ち合っていた騎士をあっという間に打ち負かした。

 振り返った時にはルークは長い髪を靡かせて廊下を走り去っていた。アッシュは呆然とその後ろ姿を見送った。
「俺に会いに来たんじゃないのか?」
 一抹の寂しさともう屋敷内は自由に動けるようになったのだと言う安堵とがないまぜになり、アッシュは声をかけることも追うこともできなかった。






++++








++++5




 部屋に逃げ帰ると部屋の前にはワゴンが置かれていてルークはもうそんな時間になっていたのかとワゴンを押して食堂へと入った。今日は一緒に食事ができるのだろうか?まだまだ訓練は続くのだろうか?食事もとらずにあのような激しい訓練をしているとすればとても空腹だろう。明日からはアッシュは別にして先に済ませたほうがいいのかもしれない。そうするべきだとルークから進言するべきなのだろう。そうすればすればアッシュは騎士達と食事することになるのかと思いいたりルークは思わずため息をついて椅子に座った。それとも今日はすでに彼らと済ませてしまったのだろうか?

 ガイもいなくなりまたルーク一人になってしまった。

 いや、前と同じになるだけなのだから……ルークは大きく息をついた。アッシュがいなくなるわけでもない。午後にはルークの訓練にだって付き合ってくれる予定だ。素ぶりをするルークを眺めるだけのアッシュにとってはとても退屈な時間になるだろうことはルークにもわかっていた。アッシュは少しもそんなそぶりは見せないが、ふと先ほどの剣を振りかぶったアッシュを思い出して鼓動が速くなった。とても美しい姿をまた見たくて、誰もいない中庭に目が行く。そしてその姿がみれないことに落胆する。

 見れなくて落胆するくせに、訓練の姿を見るだけで動悸が酷くて怖くなって逃げてしまった。見ていたい。傍にいたい。どんどんと欲張りになっていくのにルークの臆病な性分は怖気づいてまだ人に触れることもできないでいる。アッシュは別だけれどそれすらも危うい。
 アッシュを見ていてよくわからない酷い動悸がした。いや、思い出しただけでというべきか、ルークはそっと胸に手をやった。やはりレプリカは時間が経つと壊れるのかもしれない。

 壊れるのだとしてもアッシュには知られたくなかった。この不整脈はアッシュが来るまでに収まるだろうか。頬が少し熱い。
 ルークは大きく息をして呼吸を整えた。ほんの少しの不安はルークの中に澱のように残るが、ルークはそれを押し籠めた。一度死んでアッシュにより再構築され、毒の体が普通になったのだからもうあのおかしな壊れているような酷い症状はまだ今は出ていない。あれもきっとアッシュが治してくれたに違いない。違いないと思うが……ルークは窓の外へ視線をやってアッシュを探した。不整脈が起きるのにあの紅い髪が見えていないと落ち着かない。見えていても落ち着かない。ルークは苦笑した。
 もしすべてを忘れてしまってもアッシュと一緒にいたい。記憶をなくしてしまった己に日記に書き記しておく以外になんとかしてアッシュを覚えておく方法はないものだろうか。もしまた何もかも失ってしまえば文字が読めるとは限らない。下手をすればまた言葉から覚えなおすことになるのかもしれなかったら日記など何の役にも立たないのだ。それとも今のルークと同じでまたアッシュを見つけられるのだろうか?

 不安は限りなくルークの中から浮かんでくる。ルークは頭をふりそれらを振り払った。何かをしていないとまたくだらない妄想に取りつかれそうで怖くなった。食器を並べてアッシュが来るのをルークは待つ。食器を並べ終わってしまうとすることがなくなり、ルークはそわそわとしながら回廊へと視線をやった。アッシュが回廊を渡ってくるのが見えた。とたんに収まり始めていた心臓がどきりと高鳴った。アッシュがこちらに向かっているという安堵と嬉しさが心のうちで跳ねまわる。
 アッシュと声をあげて駆け寄りたい衝動に駆られるのをルークは懸命に抑えた。壊れる己に対する恐怖とそれがアッシュに知られてしまう恐怖。それはきっとアッシュが直してくれたはずだと己に言い聞かせても、臆病なルークにアッシュが離れて行ってしまうのではと次の不安が湧き上がる。
 ぐるぐると堂々巡りの思考に囚われる。
 手に入れてしまうとこういう恐ろしさもあるのかと、ルークは改めて手のひらを見つめた。触れることすらあきらめていた時にはなかったものだった。一人考えにふけっていてしまったらしい。
「ルーク。待たせてしまったか?」
 急に声をかけられ知らないうちにアッシュが目の前に立っていた。
「あ……いや……」
 ルークは覗き込み間近にあったアッシュに瞳に驚いて思わず一歩下がった。
「ちょっとぼんやりしてしまってた。ごめんアッシュ」
「そうか?顔も赤い……具合が悪いのか?」
 アッシュがそんな風に間近で覗き込んでいるからだとルークは思いながらもまた一歩下がり視線を逸らした。また不整脈が酷くなった。耳鳴りまでしそうだ。ルークはなんでもないと伝えたくて首を横に振ったが、とても言葉は出そうになかった。心配そうな表情でアッシュはルークの言葉を疑うように目を眇め、そっとルークの額で手を置いた。
「え?」
「熱はないようだが……体調が悪いようなら今日の訓練は止めておいたほうがよいな」
 額に触れる熱い感覚にルークは顔をあげて熱源を確認した。アッシュの碧の瞳が困惑気味にルークを見つめていた。何もかも見透かされそうな瞳にルークは息を飲んだ。咄嗟に逃げを打つ体をアッシュが心配そうに抱き寄せる。
「どうした?」
 心臓が高鳴ってアッシュの腕の中にくるまれて暖かさに包まれていると、それが次第に収まってそれが心地よくなってきた。あんなだった不整脈もゆったりと打ち始めてルークはアッシュに体を預けた。アッシュもルークを抱きしめる腕で背中を安堵させるように軽く打った。やはりアッシュもルークと一緒にいるより他の人といるほうがいいのかもしれない。
「アッシュが来ないかもって……」
「遅くなって不安にさせたか?すまない」
 アッシュがなだめるようにルークの頭を撫でた。
「不安……?」
「違うのか?」
 見上げると苦笑を浮かべたアッシュが瞼に唇を寄せた。ルークの中にあった不安はアッシュのいうものとは違ったが、結局のところはアッシュが来ないことが不安だったのかもとルークは思い始めた。
「不安だったのかな?そうかもしれない……でも来てくれたからいい。朝食をとろう」
 ルークはそうは言ったもののアッシュから離れがたく、アッシュに凭れかかり指はアッシュの服を握りしめていた。笑うアッシュの吐息が耳を擽った。暖かくて安心できる場所はここしかないように思えた。
 見てるだけじゃだめなんだろう。どこまで貪欲になってしまったのだろうか、ルークはそう思いながらもアッシュに縋っていた。アッシュの腹部が空腹のために音をたてた。
「あ……」
 アッシュが困惑したように声をあげた。
「すまない……」
「俺のほうこそ、ごめん……朝ごはんを食べようか」
 ルークは名残惜しく思いながらもアッシュから離れた。アッシュも名残惜しいと思ってくれているのだろうかルークの髪の裾をそっと指で梳いていた。
「すまない……できればずっと抱きしめていてやりたいんだが……」
 ルークは首を横に振った。
「朝から訓練してきたんだろ?本当にごめんな」
 ルークはアッシュを席に勧めると朝食を始めた。すっかりと冷めてしまっていたが、二人で食べる食事はおいしかった。しかしルークはいつ明日からの食事は一緒にできないと言われるかと不安で落ち着かなかった。

 「食べてすぐに横になることを勧めるつもりはないが、少し横になったほうがいいかもしれないな」
 アッシュは食後のお茶を淹れながらルークに横になることを勧める。
「大丈夫だよ。別に疲れているわけじゃないし……」
「いや、いつもより元気がない」
 アッシュは首を横に振っているルークの手を引いてベッドへと座らせる。
「だけど……」
 横になるとアッシュがどこかへ行ってしまいそうで寂しかった。せめてお茶を飲む間くらいはアッシュの姿を見ていたかった。先ほど起きたばかりで眠くもないのも事実だった。
「眠くない……」
「では少しそこに少し凭れかかるだけでもいい……あまり顔色がよくない」
「アッシュは俺を病人にしたいのか?」
「そんなわけないだろう、鏡を見てみろ」
 そう言われて手渡された鏡に映った姿はいつもと変わらないように思えた。
「いつもと同じだと思うんだけどなぁ……まぁいいや」
 あまり我儘を言ってアッシュに呆れられるのも嫌だった。ベッドサイドのお茶を一口飲んでからルークはアッシュの言うとおりにクッションに体を凭れかけた。クッションなんかよりアッシュに凭れたい。
「アッシュはまた訓練に行くのか?」
「いや、そういう予定は入ってないが?どうしてだ?」
 ルークはなんでもないとクッションに顔を埋めた。アッシュは何も言わずにルークの頭を撫でた。
「午後からは剣の訓練をするぞ。それまでには少し体調を戻しておいてくれ」
 ルークは反射的に顔をあげた。
「俺とも訓練してくれるのか?」
「そういう約束だったと思うが……嫌ならまた後日に変更してもいいが……」
 そう言いながらアッシュはルークに横になるように促し、ルークの体をクッションへと凭れかからせた。
「違う違う……したいんだ。アッシュが疲れてなければ」
「あれくらいでは疲れはしない」
「でもおなかは減っただろ?」
「っ!……」
 アッシュは恥ずかしそうに顔を背けた。
「アッシュ。明日からは騎士団達と食べる?用意はそちらにさせておこうか?」
 笑みを作ってそういいながらもやはり寂しくてルークはクッションへと顔を埋めた。
「いや、今日は遅くなってしまってすまない。明日からはきちんと時間を守るようにする」
「え?」
「主人を待たせるなど本当に申し訳なかったな。ルーク」
「ち、違うんだ……アッシュのためにはそうしたほうがいいんだろ?」
「いや、俺はお前と一緒のほうがずっといい」
「本当?」
「ああ」
 アッシュが綺麗な笑みで深く頷いた。気を使ってそうしているのではなく本心からそう思ってくれていることが分かってルークの心は弾んだ。
 
「やっと笑ったな」
「え?」
「ずっと浮かない顔をしていた。そんなことを心配していたのか?どこか具合が悪いのかと心配した」
「そんなことは……」
「ないとは言わせないぞ。今朝も訓練場まで足を運んでおきながらさっさと帰ってしまっていたな」
「あれは……」
 ルークはあの時の不安を思い出してしまい口を閉ざした。アッシュに何もかもばれてしまいそうで怖くなった。
「ルーク」
「なんでもない……」
 ルークは横に立っているアッシュの袖を握り占めた。アッシュがそばにいるそれを確かめると安心できた。
「ルーク」
 アッシュがルークの頭を抱えるようにして抱きしめてくれた。ルークは腕をアッシュの腰にまわし強くしがみ付いた。ルークの抱える物は不安ばかりでアッシュにそれがばれることも不安になって、不安ばかりで嫌だった。どことなくアッシュが上機嫌になっているような感じがしてそれもなんだか面白くなかった。




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迷走し続けるルークと共に迷走してしまってすみません。








++++6




 今日、アッシュはどこかへ出かけているらしい。アッシュのいない一日は少し退屈だ。
 ふわりと暖かな風がルークの髪を撫でた。いつの間にか転寝をしていたようだ。日差しが頭に掛りそれが暖かくてアッシュに抱きしめられた時のことを思い出した。数日前のことだ。
 不安で何もかもが不安でどうしようもなくて、それがアッシュにもわかっていたのだろう。アッシュにギュッとしてもらったらそれが消えた。触れる熱は怖いはずなのにアッシュのそれはとても温かでルークはずっと離れたくなかった。アッシュだけ特別なのだ。
 
 出かける前にお茶の時間は一緒にできるはずだとアッシュは言っていた。その時刻まではあと少し……

 ふとテーブルを見て、卓上に花を飾ろうと思いついた。
 ペールとガイがつくってくれたルークのための庭がある、他の人に会ずに庭を散策できるルークのために作られた小さな東屋がある庭。今頃ならバラが綺麗に咲いているはずなのだが、咲いているだろうかとルークは足を速めた。最近はあまり利用していなかったが、綺麗に手入れをされた庭には花が風に揺れていた。
「今度アッシュにも見せてあげよう」
 あまり匂いのきつくない花を選んでルークは鋏を入れる。ぱちりと心地よい音がする。銀色でつるりとした手触りのよい鋏はルークのお気に入りの一つだった。もっと早くに思いついて花を摘みに来ていればよかったとルークは時間を気にしながらも花を摘んだ。
 東屋で花のとげを切りながらベンチに一冊の本があることに気付いた。ルークしか使わないはずの東屋にルークの知らない物があることに驚いた。
「ガイかペールの忘れものかな?」
 庭の手入れに関する本だろうかと覗き込む。表紙には綺麗な女性の絵が描いてあった。植物の本ではなさそうだ。タイトルを見てルークは思わず手のひらサイズの小さな本にルークは手を伸ばした。
 天啓だ。
 小躍りしたい気持ちでその本をポケットに押し込んで棘をとったバラを抱えてルークは部屋へと駆けもどった。早くその詳細を知りたくて仕方なかった。早くバラを活けて本を読もうと気ばかりが焦る。花瓶を探し出し花を投げ入れた。習慣になっている回廊へと視線をやるとアッシュが戻ってくるのが見えた。
「あ……」
 ちょうどお茶を運ぶメイドと並んでこちらへと回廊を渡ってくるのが見えた。何か会話をしているらしくアッシュの表情が柔らかく笑みを浮かべる。早く帰ってきてくれて嬉しいがなぜか胸がもやもやとした。
「アッシュ……」
 顔をあげてこちらを見たアッシュから思わずルークは窓の影へと隠れてしまった。
 何をやっているんだろう……
「アッシュです。今、戻りました」
 アッシュの声がしてルークは我に返った。
「お帰り!」
 ルークは扉へと駆け寄った。扉が開きアッシュの姿が見えてルークは飛びつこうとして後ろに控えるメイドの姿に気づいて慌ててその腕を引き戻した。
「お茶の時間に間に合っただろ?」
 アッシュが得意げな顔を見せる。ルークはもう一度お帰りと声をかけた。メイドはワゴンを部屋の前に置くとそっとお辞儀をしてから戻って行く背中を、ルークはほっとして見送った。
「アッシュ。どこへ行ってたんだ?父上とお出かけだったのか?」
 ルークはアッシュを部屋へと招き入れると
「違う。こちらからお願いして少し街へ降りていただけだ」
 アッシュは隣の部屋へと視線をやった。
「?」
 つられて同じように壁を見ているルークにアッシュは表情を柔らかくした。
「隣にできる従者部屋のことで話をしてきた」
「いつできるんだ!!もう工事は終わってるのに全然アッシュがこっちに来ないからもうその話はやめになったのかと思ってた」
 練習場が近い騎士団の宿舎に入るのかもしれないなどと諦め初めていた。
「明日に入る調度品のことで少し……な……」
 アッシュは苦笑を浮かべた。
「母上?」
「ああ……」
 アッシュの好みではない調度品を母上が発注していたのだろう。それにアッシュが気づいてやめされたといったところか……
「俺が口出しできることではないとは思ったのだが……最終確認されたので少し我を通させてもらった」
「うん……そのほうがきっといいと思う。疲れるような部屋はよくない……よ」
「やはり疲れると思うか?」
「あー母上が選んだんだろ?たぶん……」
 アッシュと二人顔を見合わせて声をあげて笑う。
「もうすぐアッシュは隣の部屋になるんだな!」
 いつになるのかは分からないが、あと数日がルークは待ち遠しくて仕方なかった。アッシュも嬉しそうに笑みを浮かべて頷く。
 街の様子などの話を聞きながら二人でお茶の時間を楽しんだ後、アッシュに剣術の稽古をつけてもらった。




++++








++++7




 剣術の稽古で体は心地よく疲れていた。いつもならそのまま眠ってしまうところだが、ルークはベッドに座ると本を取り出した。
 どうやら教本ではなく物語の体裁をとっているようだった。タイトルにあるルークが知りたいことはこの物語の中にあるということなのだろう。ルークが今知りたかったことがそのままタイトルになっているなんて本当にどういう偶然か奇跡なんだろうか。
 アッシュを忘れないでいる方法がその本の中にある。
 ルークは逸る気持ちを抑えて、頁をゆっくりと繰った。



 夜更かしして本を読んだために今朝は眠い。いつも眠いがそれ以上に眠い。瞼が重くて上がらない。今日は隣の従者部屋にアッシュの家具が入る日だ。アッシュが過ごしやすい部屋をつくるためにルークはこっそりと見張っているつもりだった。母上が過剰な装飾をうっかりと指示しないようにルークがしっかりとしなければならないのだ。
 ルークは気合いを入れてベッドから起きあがり朝の支度をする。

 枕元の本を見てルークは知らずと笑みがもれた。アッシュを忘れないでいる方法はあった。ありがたいことにその術もこの本には簡単な記述だが載っていた。ルークがない知恵を絞って考えていたような日記なんてそんな方法じゃないもっと確実な方法があった。この本の言うとおりならちょっと時間がかかりそうなのが少し心配だ。
 時間の猶予がどれくらいあるかわからない今は、一日でも早く実行に移さねばならない。それにはアッシュの協力も必要だった。今までの経験からもその方法はとても有効なように思えた。
 アッシュの部屋が隣になるというのはとてもありがたかった。隣に今夜からでも移ることができればいい。誰か来ればいつから利用できるのか聞いてみよう。 ルークは窓を開けて伸びをして、大きく呼吸をした。
「今日は忙しいぞ」
「どうした今日はずいぶんとはりきっているんだな」
「アッシュ!」
 突然の声にルークは驚いて振り返った。珍しいと驚いた表情のアッシュが立っていた。
「気がつかなかった……いつから?」
「ノックはしたんだが?返事がないので、まだ寝ているのかと……勝手に入ってすまなかった」
「ううん……いつも起こされるまで起きれないのは本当だし……」
 恥ずかしくなってルークは顔を背けた。寝起きの間抜けな顔を見られるのは恥ずかしいのだが、どうやってもアッシュより早く起きておくことができないのだ。
「寝顔を見るのが毎朝の楽しみなんだが……」
「そんなに面白い顔して寝てないだろ……」
 ルークはますます恥ずかしくなって顔に血が上った。
「愛らしくて癒されると言う意味だ」
 真面目な顔をして言うアッシュにルークは同じ顔なのに、やはり全く違う凛々しいアッシュの顔を見て早く同じように成長したいと改めて思った。
「またそうやってガイの真似してからかうのやめてくれよ」
 そうしているうちに朝食のワゴンが届き、ルークは隣の食堂へと向かった。
 席についてからアッシュがルークの顔を覗き込んだ。
「そういえば今朝はどうしたんだ?眠れなかったのか?」
 そう言いながら身を乗り出してルークの頬にそっと指で触れた。
「隈ができている……」
「眠れなかったわけじゃない。ちょっと本に夢中になって遅かったんだ」
「昼寝をしたほうがいい……な」
 心配そうに言うアッシュだったが、ルークは首を横に振った。
「大丈夫眠くないんだ。だって、今日はアッシュの部屋に調度品が入るだろ?アッシュが訓練に行ってる間にさ、母上が装飾を増やさないように見張っててやるからアッシュは安心して訓練に集中してくれよ」
 ルークは胸を張ってアッシュに言った。
「それは助かる」
 アッシュも密かにそれを心配していたようで、心から安堵したように笑った。
「あと、アッシュにお願いがあるんだ。ちょっと協力してほしいことがあって……」
「俺に出来ることなら協力するが?」
「よかった」
 約束を取り付けられて、ルークはホッとしてカトラリーを手に取った。アッシュがお願いの内容が気になるようでルークに話の先を求める視線を送ってくる。
「アッシュにしか頼めないことなんだ」



 「それで?」
 食事が一通りすみナプキンを丸めながらアッシュが尋ねる。ルークは残っていたフルーツを慌てて飲み込んで唇を拭いた。
「頼みたいこととはなんだ?」
「時々アッシュは俺にぎゅってしてくれるだろう。あとキスとか……」
 ルークは言っててその時のことをリアルに思い出してしまい。唇にその感覚が蘇り思わず唇を舐めた。先ほどのフルーツの酸味が残っていた。
「ああ……」
 アッシュが楽しげな表情でルークの唇を熱い瞳で見つめていた。
「そういうのをまたして欲しいんだ……」
 ルークもアッシュの唇から目が離せなくなってしまい。指でもてあそんでいたナプキンを置く、頬が熱く思わず吐息が出た。
「何かあったのか?」
 アッシュが楽しげな表情を一変心配にかえて席を立つとルークの横に回り、ルークの頭を抱きかかえた。
「嬉しい申し出だが……何かあったのか?」
「何かって?」
 アッシュが髪を指で梳いてくれるのに身体を凭れかけてルークはそっと見上げた。
「お前からこういうことを求めるのは珍しい」
「アッシュにはずっとしててほしいよ。迷惑じゃない?」
「迷惑なものか……ああ、この後の剣の訓練をキャンセルしたいほどだ」
「それは駄目だろ……?今日は隣に調度品も入るし……」
 ルークはそういいながらも抱きしめてくれる腕が嬉しくて離れないようにと手を回した。本当はそんなのウソだ。何もかも放り出してこのままずっとアッシュの腕の中にいたい。そして本で読んだ通り、アッシュをこの身に覚えさせたい。
 期待に胸が震えた。それに応えるようにアッシュの体温が上がったように思えた。それを離したくなくてルークは腕に力を込めた。アッシュは額に唇を寄せそれから瞼、こめかみと順にキスを降らせ触れ合うだけのキスを唇にした。暖かなものに包まれる幸福感にルークは忘れるはずがないと確信できた。
「アッシュ……」
 アッシュの頬にルークは頬を擦り寄せた。
「アッシュ……」
「今日はずいぶんと甘えるのだな?」
「俺にはアッシュが足りないんだ……」
 ルークの真剣な言葉を比喩ととったのかアッシュはくすりと笑う。
「俺にはルークが足りない。ずっとだ」
 そう言ってアッシュは深い口づけをした。




++++








++++8




 はふりとルークは朝のことを思い出して息をついた。なんだか顔が熱い。今までにアッシュとキスをしたことは何度かあったけれど、あんな風にぞくぞくと何かが沸き立つようなキスは初めてだった。初めてのキスは突然でルークはあまりの息苦しさと動悸に死んでしまうのではないかと心配になったほどだったが、それから触れ合うだけのキス。アッシュのキスはルークにとってとても特別なことだったけれど、まだキスだけでもこんな風に違うものがあることに驚嘆する。ルークは己の唇に指を当てて吐息をついた。
 あのキスだけでルークの体はずいぶんとアッシュを記憶したように思える。アッシュの体温や感触、匂いまでも思い出す。鼓膜を震わせる声が今も耳に残る。アッシュに抱きしめ触れらることもきっともっといろいろとあるのだろう。
 あの本に載っている方法は間違いない。
 ルークは確信して拳を握りしめた。時間が惜しい。夕食の後もアッシュに協力してもらおう。主人公の女性のように記憶をなくしても、すぐにアッシュが特別だとわかるようにこの身体にしっかりと記憶させなければならない。残念なことに本には記憶させるのに必要な期間や回数などということは記載されていなかった。こればかりは何度もと書いてあったので何度もアッシュに協力してもらうしかない。とりあえず今日からできれば毎日。
 ルークは拳を握りしめ気合いを入れなおした。

 隣の部屋の荷物は運び終わり、しばらくはガタガタと物音がしていたがそれも次第に収まりつつある。ルークは扉の影から部屋の中を覗いた。窓に掛ったカーテンはルークの部屋と同じものだし、机も箪笥も物入れもそう変わりないものが揃えられている。派手で華美な花の装飾やリボンがついてはいないことをルークは確認した。
 ベッドはルークの物とは違い部屋の隅に置かれ、アッシュに相応しく落ち着いた雰囲気で大きい。ルークの物も子供の頃にはそれなりに広くて大きいと思っていたのだが、ここ数年で少し手狭でごろごろと転がることはできなくなっていた。新しいものに変えるほど狭いわけではないので気にしてなかったのだが、クッションを並べると少し小さい。もう少し大きければアッシュも一緒に眠れたかもしれない。あの大きさならルークが潜り込んでも大丈夫だなとルークは一人ほくそ笑んだ。本の通りにベッドの上ぎゅっとしてもらうことはできそうだ。ルークの狭いベッドで大丈夫だろうかと心配だったのだ。
 忙しそうに小走りで部屋から出てきたメイドにルークは声をかけ、アッシュの部屋はいつから使えるかと尋ねた。



 「ルーク?」
 夕食時に物が呑み込まれていくアッシュの唇に見とれてぼーとしてしまっていた。アッシュに呼びかけられて、はっとしてアッシュと目があった。碧の瞳がじっとルークを見つめていた。
「あ……」
 回避方法がわかって一度とはいえアッシュを記憶してから、あの壊れそうなほどの動悸も治まりつつあった。やはり治療法としては正しかったようだ。おかげでこうやってじっくりとアッシュを見つめていられる。
「どうした?」
「なんでもない……ちょっとぼんやりしてしまっただけ。今日のチキンもうまいな!」
 ルークは慌ててフォークに刺さったままになっていたチキンを口へとほおりこんだ。そういえば、夕方からアッシュの荷物が運び込まれていたように思うのだが、アッシュはいつから隣の部屋を利用するのだろうか?
「あ、あのアッシュはいつから隣の部屋に来るんだ?メイドはもう使えるって言ってたけど……」
「聞いてなかったのか、今夜から隣の部屋になった。よろしく頼む。何かあったら呼べばいいすぐに来る」
 ルークは頷いた。心の中では拳を握り占めた。食事が終わったら入浴をして、もう一度本を読んで復習をしてからアッシュに声をかけよう。ルークは反芻して頷いた。そうしていないと緊張して変なことを口走りそうだった。
「どうした?」
「なんでもない……アッシュが隣になって嬉しい」
 ごまかすために言ったのではない、本心だった。
「アッシュは夜はいつもどうやって過ごしてるんだ?」
「本を読むこともあるが、割と早くに寝てしまうことも多い」
「え?寝ちゃうのか?」
 アッシュはああと頷いた。
「ルークはどうしている?」
「俺は日記を書いてる。寝る前の習慣なんだ。そっかアッシュは早く寝ちゃうのか」
 残念な気持ちを隠しきれなかった。入浴していたらアッシュは寝てしまっているかもしれない。思わず肩を落とした。アッシュは忙しいからルークにつき合っていられる時間はそう取れない現実に気付いた。
「何か用があったのか?」
 ルークは首を横に振りながらもついつい願いが口に出てしまう。
「アッシュにぎゅってしてもらいに行こうかと思ってただけなんだ」
 アッシュが驚いた顔でルークを見ている。
「あ……その今朝のお願いの続きなんだけど……」
 説明不足だったかとルークは慌てて付け加えた。アッシュには目的もきちんと話しておくべきかもしれないが、そうするとルークが壊れることも伝えなければならない。それは嫌だった。ルークは何も言えなくなってもじもじと手遊びをしてしまう。
「毎日の寝る前の挨拶か?」
 アッシュは困惑しやっと答えを見つけたようにルークに確認をする。ルークはアッシュに言われてそういうことなのかと本にあったことを改めて理解した。
「そ、そう!毎日!!寝る前にしてほしいんだ!」
「そういうことなら」
 アッシュは頷いた。
「何時頃にこちらへ来ればいい?」
「俺が行く!アッシュが寝ちゃう前に行くようにする」
「ところでそれはガイもしていたのか?」
 アッシュが口元を歪めて尋ねた。どうしてガイが関係しているのかわからなくてルークは首を傾げた。
「ガイ?どうしてガイなんだ?」
「お前の世話係だったのだろう?」
「そうだけど……俺は触れてはならぬ。だったからアッシュ以外の人はほとんど触れたことないよ」
「まだ……アッシュ以外の人は怖い……ごめんなアッシュにばっかりこんなこと頼んで……もっとほかの人も触れるようにならなくっちゃだよな」
 やはり本のように何度も触れ合いたいと願うのは贅沢で我儘な行為だったかと、ルークは意気消沈した。一人で勝手に決めて盛り上がってアッシュの迷惑を考えてなどいなかった。アッシュが心配してくれているようにもっとアッシュ以外の人とも触れ合うことに慣れなければいけなかったのだ。
 その後でアッシュを記憶するために触れてほしいと願うべきだった。他の人と違うことをすっかりと失念していたルークの失態だ。
「いや、焦らなくていい」
「アッシュに迷惑かけてて……」
「迷惑なんかじゃない。他の人に頼むなら俺を頼ればいいそのためにここにいる」
「ありがとうアッシュ」
 ルークは嬉しくなった。こんな風に優しいアッシュを忘れたくなかった。




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++++9




 ルークは入浴の後、火照る体を冷ましながらも本に眼を通して確認する。いつもより長く掛ってしまったのでそうゆっくりとはしていられない。ルークは髪の滴を粗方取り終えると後は自然に乾くに任せた。
 ルークは食堂を抜けてアッシュの部屋へと急いだ。疲れたアッシュが寝込んでしまってはさすがに起こしてまではお願いはしずらい。『開かず』になっていた扉をノックしてルークはそっと声をかけた。
「アッシュ?」
 眠っているのなら起こさぬようにそっと部屋へと戻るつもりだった。かたりと物音がして扉がゆっくりと開いた。アッシュが迎えるように立っていた。ルークは開かれた両手に誘われるようにその中に飛び込んだ。
「おっと……」
 反動で下がったアッシュが驚いた声をあげてルークを抱きしめる。アッシュが笑い声を楽しげに含ませた。胸から伝わる振動が心地よい。アッシュにしがみ付きながらもごめんと謝った。
「少し髪が濡れているな……よく乾かしておかないと風邪をひくぞ」
 アッシュはルークの髪を撫でて、肩に手をやりルークを覗き込むように離した。離れたくなかったがいつもと違い薄着なアッシュが濡れてしまうと心配になってルークは慌てて身体を離した。
「ごめん……濡れなかったか?かなり乾いたつもりだったんだけど……」
「俺は大丈夫だが、お前の服が少し濡れている」
 アッシュがそう言いながらルークの肩口から胸元へと視線を泳がせた。つられてルークも自身の胸元に目をやった。
「あ……」
 パジャマの肩から胸元にかけて少し湿り気を帯びてほんのりと透けてしまっていた。女の子だったら大変なことになっているところだった。慌てて水を拭ったから髪はかなり乾いているのだが、その作業をしている間に気が行かなかった服が濡れてしまっていたらしい。なんだかしょっぱなから子供のような失敗をアッシュに見られてしまい少し恥ずかしい。
「あ、後で着替える……」
「そうしたほうがいい。それで眠る前の挨拶だったな。抱きしめてキスだったか?」
 アッシュはそういうと改めてルークへと腕を巻きつけ寄せた。ぎゅっと身体が暖かさに包まれてルークはぽあんとした気分でアッシュを見上げていた。じっとアッシュの碧の瞳を見つめていた。アッシュが子供を労わるような笑みを浮かべてルークの額に唇を寄せ、軽いリップ音をさせた。
「おやすみルーク。よい夢を」
「あ、ありがと……」
 アッシュはそう言ってもう一度ルークを抱きしめてから腕を離した。ルークは同じようにおやすみと返して部屋に帰るべきかと思ったが、離れた温度と距離に突き放されたように感じてしまい。余計に離れがたくなってしまった。やっぱり貪欲になってしまっている。アッシュが足りないって身体が言ってる。そう言ってもいいと本から知識を得たせいでますますその声は大きくなった。
 いつまでも自室に戻る気配のないルークにアッシュが困惑の表情を浮かべた。
「何か違ったか?」
「あ、アッシュが足りない……」
 ルークはアッシュの洋服の裾を握りしめた。時間がないのだ。もっともっと身体に染み込んで忘れないくらいにアッシュに触れなければいけない。一晩、一緒に寝たらきっといい。濡れたままではアッシュのベッドに潜り込むことは遠慮したほうがいいかもしれない。アッシュの真新しい寝具を濡らしてしまう。
「もっとアッシュがいるんだ」
 困惑したままのアッシュの腕を引いてベッドへと誘う。目の前で見るベッドはルークの思った通り大き目でルークが潜り込んでも全く問題なさそうだった。問題は濡れたルークの服だけだ。脱いでしまえばアッシュの寝具を濡らす心配がなくていい。ルークはシャツのボタンを一つ外し肩を抜いた。肌触りのよい緩めのシャツはそれだけでするりと床へと落ち始めた。そうだ本にも書いてあったもっとたくさん触れ合ってアッシュを自分の中に取り込む方法をお願いしなくては……
「アッシュ。お願い俺とセックスっていうのをして」




++++








++++10




 ここ数日ルークの様子がおかしい。もともとルークの行動も思考もアッシュにとっては予想できずおかしいものが多いのだが、特にここ数日はそれが顕著だった。ふさぎこんでいたかと思うと積極的に触れ合うことを求めたり。誰かに何か吹き込まれでもして、接触障害を無理に治そうと努めているのならば、新たなトラウマになりかねない。それならば個人的には非常に残念ではあるが、止めねばならない。本当に積極的にそうしたいと思って努力しているのならば、協力してやりたい。非常に残念ではあるが……
 どちらにせよ残念なのだ。
 アッシュは苦笑した。触れていたい。触れていいのが自分だけという特別は手放したくないが、ルークが喜ぶことならなんでもしてやりたい。レプリカに向けるには少しおかしな感情であることは理解している。しかしあの純粋な幼子のようなレプリカを守りたい。いや、己の物にしておきたいこの腕の中で囲っていたいだけなのかもしれない。それはルークにとってあまり良くないことだとアッシュは自制する。
 寝る前に就寝のキスとハグを求めるなどとてもかわいらしいお願いをされてしまった。アッシュから出向きそのままベッドで眠りに着くまで付いていてやろうかと思ったが、ルークはとても意欲的に部屋へ来訪すると言った。ガイにもさせていたのかと醜い感情が先に立ってしまい。ルークはアッシュに断られたと思ったらしく酷く消沈させてしまった。そのうえ他の人とも触れ合えなくちゃいけないよな。と強張った表情で微笑んだ。
 他の者とハグしキスを乞うルークを想像しただけで、醜い感情で眩暈がした。慌てて俺以外の者に頼むなと切実に頼み込んだ。ルークにはアッシュの切実さは半分くらいしか伝わってはいなさそうだったが、今夜早速にルークは新しい部屋へと訪問してくれる。
 新しい部屋を見たかったのだろうか?
 アッシュはそんなことを思いながら、眠る準備を整えてから剣の手入れを始めた。ルークも少しの時間でも共に居たいと思ってくれているのだとはわかってはいるが、アッシュのそれとは少し違うのだろう。あのルークにあまり期待しすぎるのも酷なことだ。否違う。ルークは純粋な気持ちとして寄り添いたいと思っている。アッシュは下世話なことばかりが頭を巡り、正直あまり手入れには集中できなかった。
 控えめな扉を叩く音がした。
 扉を開くと夜着姿のルークが花がほころぶような笑みを浮かべた。思わず両手を広げて誘えば、ルークは迷いなくアッシュの腕の中へと飛び込んできた。勢いが余ってアッシュは受け止め損ねよろめいてしまう。
「ごめん……」
 ルークが申し訳なさそうに小さく謝った。小さく震えて腕の中にいるさまは小動物のようだ。これが自分から生じたものだとは信じられない。あやす様に頭を撫で、抱きしめた肩がしっとりと湿り気を帯びている。髪もまだ水分を含み冷たくルークを包んでいる。
「少し髪が濡れているな……よく乾かしておかないと風邪をひくぞ」
「ごめん……濡れなかったか?かなり乾いたつもりだったんだけど……」
「俺は大丈夫だが、お前の服が少し濡れている」
 風邪をひいてしまうと心配で覗き込んだルークの肢体を包む濡れた薄手のシャツは、ルークの肌に貼りつき映した肌がアッシュの理性を攻め立てる。ルークもそのことに気付いたのだろう。恥じらい頬を染めた。アッシュは早々に課せられた使命を果たしルークを暖かな褥に戻すことに専念することにした。腕の中の熱と柔らかさに理性が持たない。

 アッシュが思いつく就寝のハグとキスをルークに与え、いつまでも濡れた服でいるのもいけないとルークを手放した。ルークは不満そうに視線を彷徨わせている。ルークの期待したハグとキスではなかったのか?
「何か違ったか?」
 ルークは尋ねたアッシュの服の裾を掴み、吐息のように「アッシュが足りない」と呟いた。そしてアッシュを引っぱりながら、決心したように言った。
「もっとアッシュがいるんだ」
 ベッド脇までルークは戸惑うアッシュを引っ張っていくとおもむろに濡れたシャツのボタンを外し、肩を抜くとするりとシャツは落ちルークの上半身を曝け出した。アッシュは声もなくルークの裸体を見ていた。濡れた服は早く着替えたほうがいいとは思っていたが、ルークの肢体に魅入られて咄嗟に動けなかった。
「アッシュ。お願い俺とセックスっていうのをして」
 真剣な眼でルークがアッシュを見ていた。アッシュはベッドの上に掛けたままになっていた上着に手を伸ばした。とにかくルークが風邪をひいてしまう前に暖かくしてやらねば……そう思っているのとは別にルークの言葉が反芻されていた。今、なんと言った?
 ルークの肩に上着を掛けてやりながら、アッシュは寒くはないか?と尋ねた。
「暖めてよアッシュ……」
 艶を帯びたような声で切なげに恥じらいながら言うルークの言葉に本能が反射し、思わずアッシュは息を飲んだ。そのアッシュを誘うようにルークはアッシュの手を引いてベッドへと入ろうとする。冷やりとしたルークの指先にアッシュは我に返った。
 やはり寒いのだろう。
 アッシュは舌舐めずりを始める本能を宥めつつ、浅ましい己を叱咤した。ベッドに座ったルークはアッシュを待つように見上げている。アッシュは掛布でルークを包んでやった。
「何か温かい飲み物でも用意したほうがいいか?やはり濡れて冷えてしまっただろう」
 アッシュはそう言いながらルークの背中に手を添えた。あつく熱を持っている手から少しでもルークが暖かくなるようにと願いながら……
「そんなのはいい……」
 ルークは首を横に振り、アッシュの腕に縋った。
「アッシュお願い」
 ルークはアッシュを見上げて切なげに乞う。
「俺をアッシュでいっぱいにして、それにはセックスってのがいいんだろ?」
 恥じらうように俯き頬を染めてルークは言った。
「子供ができる心配はないんだよ。俺、世間知らずだって言われてるけどそれくらいのことは知ってる」
 だったらどうして同性のオリジナルにそんなお願いをしているんだ?とアッシュは問いつめたかった。
「ルーク」
 言っている意味がわかってないのだろう。とつい咎めるような声になってしまった。ルークは俯いたままびくりと怯えて肩を震わせた。切羽詰まっている感じがしている。肉体的や性的なものではなくて精神的に何かに追い詰められてルークはこんな行動をしているような気がした。どうせならば身体が切羽詰まっての行動のほうがアッシュにはありがたいものであった。そうであればきっとアッシュはルークがただ身体だけを求めているのだとしても手に入れていただろう。幼いレプリカの心が育つまでは待っていられそうにない。
 そう思ってしまった自分に呆れてしまい、思わずため息が漏れてしまう。
 怯えていたルークの肩が悄然とし落ちた。
「ごめん……こんなお願い無理だよな。俺……アッシュがいつもぎゅってしてくれるしキスしてくれるから勝手にしてくれるって……アッシュの迷惑考えてなかった」
 ルークは肩を落としたままベッドから降りようとする。その肩を押さえてベッドから降りるのを止めた。ルークは困惑顔でアッシュを見上げる。
「迷惑だったら迷惑だって言ってくれよ。あのぎゅってするのとかも迷惑だったら駄目だって言ってくれてよかったんだ……俺……アッシュを振り回してばかりだ……」
 ルークは途中で顔を赤く染めて、子供のように腕を振ってアッシュを振りほどこうとする。
「ルーク。落ち着け」
「落ち着いてる。俺は落ち着いてるさ。もう部屋に帰るっ!だから離せよ」
 居た堪れないとばかりにアッシュの前から立ち去ろうと暴れる。ルークは両肩を掴むアッシュの腕を押しのけようと腕を突っ張った。アッシュは振り回している拳が当たるのも気にせずにルークを抱きしめた。アッシュの背中に廻された腕が背中を打つが、気にせずにルークの名前を呼んで抱きしめた。そうしているうちにルークは諦めたようで腕が脱力しだらりと落ちた。
「あ……そういうの迷惑だったんだろ?どうして……?」
「誰が迷惑だと言った?」
「だって……」
「迷惑ならきちんと断る」
「そ……う……だよな」
 ルークは納得はしていないが、アッシュを見上げて頷いた。ふらふらと揺れる気持ちのまま視線が揺れている。迂闊なアッシュの振る舞いがルークを不安にさせてしまったことを後悔する。アッシュは宥めるようにルークの背中を撫でてやる。
「ルーク、俺はお前の傍にいたいと常に思っている。そしてこうやってずっと抱きしめていたいともな。だが、お前の言う……」
 わかっているからこそアッシュは言葉に詰まった。無防備に晒された目の前にあるルークの首筋や肌がリアルで、その言葉は口にするのはやはり艶めかしく感じてしまう。軍属でストイックな生活を強いられていたとはいえアッシュとて思春期なのだ。
「アッシュ?」
 不安そうに瞳を揺らすルークがアッシュの言葉を待っていた。
「お前の言うセックスというのは男女がするものだ。結婚をして子を成す為にする行為のことだ。お前はどこでそんな言葉を覚えたのかは知らないが、お前が思っているような満たす為にするものではない」
 ルークは不思議そうな顔でアッシュを見上げていた。知っている知識とアッシュの言葉を繋ぎ合せて理解しようとしているのがわかった。
「子は満たされたらできるんだろ?女の人だけだけど……」
 ルークが寒くないようにアッシュは毛布を引き寄せてルークを包んだ。
「俺、女の人じゃないからアッシュで満たされないの?でもアッシュにキスしてもらったらなんだか胸がいっぱいになったんだよ?」
 ふわりと暖かい香りがたちのぼりアッシュは思わずルークを毛布ごと抱きしめた。ルークは考えごとに夢中らしく胸のあたりに手をやってふわりと笑みを浮かべそれからアッシュを見上げた。
「俺とはアッシュはセックスできないの?」
 残念そうに尋ねるルークはいつもと違い酷く幼く見えた。アッシュはことに及ばなかった己の理性を褒めた。
「今はな」
 思わずそう答えてしまった。
「今は……?いつかはできる?」
「お前が本当にそうしていいと思ったら……」
「本当にしてもいいって思って今日言ったんだけど……駄目なのか?できたら今したいんだ」
 ルークは勇んで身を乗り出した。縋るようにアッシュの腕を掴んだ。
「俺の知っているものとルークの思っているものはたぶん違う」
「違う?アッシュは俺を満たさない?」
 ルークは困惑し何かを思い出すように視線を宙に彷徨わせた。
「何があったルーク?誰かに何か言われでもしたのか?」
 ルークは怯えるように身体を小さくし、そしてふるふると首を横に振った。
「ルーク、俺には言えないことなのか?」
「言えないこと……誰にも何も言われてない……俺……」
 ルークはアッシュの言葉を反芻した。黙り込んで俯く。何かあったことは間違いなかった。アッシュはルークを悩ませている内容を知りたかった。それさえわかれば力になることもできるのだ。
『本の言うとおりにできなかった……どうしよう。時間ないのに……俺の知ってることと違うって……もう一度本を見た方がいいかも……』
 声が聞こえてきた。ルークが頭に手をやって眉を潜めた。顔色が悪くなり、そこでアッシュは無意識にチャネリングを繋いでしまっていたことに気付いた。慌ててチャネリングを切る。ルークの体がほっとしたように力が抜けた。
 ルークは強張った笑みを浮かべていた。そして何かを決意したようにアッシュの腕の中から抜け出した。
「俺、部屋に帰る。もう少し勉強してくる」
「今日はもう休んだ方がいい……このままここで休んでもいいんだぞ……」
 アッシュは部屋にあるソファを見てそこで眠ればいいと思っていた。眠れるはずもない夜を覚悟しながら……そう言って引きとめるアッシュにルークは首を横に振った。
「ありがとうアッシュ。でも今日は部屋に戻るよ」
 ルークはアッシュの腕を擦りぬけて部屋を出て行った。何か言って引きとめねばならない気がしたがいい言葉が浮かばなかった。先ほどの会話で何を間違えたのかアッシュにはわからなかった。ただ、流されるままにルークを抱くことは間違いであることだけは確かだった。だが、その選択がルークを孤独にしているのならせめて一晩、この部屋に留めて眠る横に着いていてやりたかった。
 扉が閉じる前にルークは一度振り返り、躊躇を見せた。
「あ、明日からも一緒にご飯食べてくれる?」
「ああ、もちろん」
 ルークからの申し出は願ってもないことだった。思わず声が弾んだ。このまま顔を合わせ辛くなることが恐ろしかったのだ。そんな恐怖を抱くくらいならルークの希望通りにしてやるべきなのかもしれないが、やはりルークの表情を見る限りその選択は違うように思えた。
 どこか泣き出しそうな顔のままルークは扉を閉めた。




++++

Rにならなかった。









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