+++還って来てとは言わない 後篇  ED後捏造もの 暴力表現あり アッシュ×ルーク


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 出迎えたルークを見て、連れて出なかったことをクリムゾンは後悔をした。そしてそのルークにさらなる試練を申し渡すことになるのを心苦しく思った。いや考えようによってはそれは僥倖であると思った。
 世界会議から戻ると未来への気力に満ちていたルークはすっかりと痩せてやつれた頬に笑みを浮かべるのが痛々しいくらいであった。隣に並ぶアッシュも酷い顔色をしていた。
 心労でシュザンナは出迎えにも出てこれない状態だという。
 二人を一緒に過ごさせるには限界だとクリムゾンは感じた。


 世界会議を受けてのキムラスカの決定を二人に伝えるためにクリムゾンはアッシュとルークを執務室へと呼んだ。
「二人ともあとで執務室へ来なさい」
「俺も父上にお願いがあります」
 ルークが迷いのある瞳でそう切り出した。やはりルークは限界だったかとクリムゾンはまだ願い申し出る気力があることに喜んだ。
「ならばその時に聞こう」



 「マルクトへ?そんな必要が…」
 アッシュが不可解だというようにクリムゾンを見返した。
「ちょうどよかった」
 アッシュの言葉を打ち消すように、ルークがそう言って破顔した。
「何が良いのだ?」
 ルークの呟きにクリムゾンが聞き返した。
「俺のお願いがマルクトに行きたいって話だったんです。ジェイド…カーティス大佐が研究の手伝いをしてほしいって連絡があって。前からお手伝いするって約束してたんです。だから約束を守るために行かなきゃいけないんです」
 ルークは何度も練習していたかのように一息で言い切った。
「しかしルーク。研究の手伝いで行くのとはわけが違うのだ」
 クリムゾンが眉間に皺を寄せた。ルークはわからないというように首を傾げた。
「だって俺、マルクトへ行くんですよね?」
「マルクトのほしがってるのは『超振動兵器としてのルーク』だってことだ。人扱いされないかもしれないんだぞ。うまくいっても体の好い『人質』だ」
 アッシュが舌打ちをした。
「アッシュ俺のこと心配してくれるのか?」
 ルークがうれしそうに言う。
「誰がお前の心配などするか。キムラスカの心配をしてるんだ。お前はどこか抜けてるからな。母国へ向けてでも『超振動』使いかねぇだろうが!」
 キムラスカへの報告と会議でもめたのもそのことであった。アクゼリュウスを落としたレプリカはまた同じ過ちを繰り返すのではないかという不安。逆を返せばだからこそのマルクト側からの要求であった。

 世界平和のために超振動を等分に。皇帝ピオニー自身はそうは思っていないようだったが、どうやら民衆の不安を鎮静化するためには必要なパフォーマンスというところだろう。

「使わない!絶対使わないから!そんなこというならアッシュは使うのかよ?」
 ルークは全身で否定してアッシュに疑問を投げかけていた。アッシュは冷たい目でルークを睨みつけていた。
「そうだな。必要があれば使うかもな」
「必要ってどんな時だよ」
「キムラスカを守る時や世界を守る時…」
「なら俺だって一緒だよ」
 アッシュの口が「屑が」と小さく動いたのはクリムゾンは見逃さなかった。父親の前ではアッシュも弁えて我慢しているらしい。
「それにマルクトにはジェイドもいるしピオニー陛下だっているんだしさ。ガイが俺の面倒見てくれるっていうんなら俺大丈夫だと思う」
「アッシュ。これは決定事項なのだ。私たちが今更反対などできないことだ。ルーク・フォン・ファブレは親善大使としてマルクトへ赴く。良いなルーク」
「はい」
 苦虫をかみつぶしたような表情でいつもの3割増しな額の皺を深くしてアッシュは黙り込んだ。隣に立つルークは神妙な顔で頷いた。



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 場所はタタル渓谷とは違い狭い中庭。あの時と同じように月は天に昇り、花壇に植えられた花々に光を与えてくれている。芳香はあのときとは季節が変わり花が変わっても芳しい。ペールから新しい庭師に変わったという庭は花の種類が少し変わったようだったが、破壊した中庭以外は同じように美しく整えられていた。
 中庭の狭い空では月が見える時間はあと少しだけだった。ルークは真上を見上げるようにしたままベンチに寝転がった。こんな姿を見られたらまた怒られるかもしれない。
「お前はそれでも俺のレプリカなんだぞ?!屑がっ!」
 案の定見つかってだらしない格好をするなと罵倒された。
「あちらではそんなことするな。キムラスカの恥だ」
 ルークは座りなおしてから、黙って頷いた。明日からマルクトへ親善大使と言う名の名目上の人質に行く。それについては十分すぎるほどに注意とあらゆる人々から延々と講義を受けた。超振動を二大勢力に等分にというキムラスカ側からの善意の表れなのだそうだ。


「アッ…ルークとはもう会えないかもしれないけど、元気で」
 呼びなれたアッシュの名前を呼びそうになって、正しく呼び直した。それだけでもアッシュの柳眉がぴくりと不快そうに歪んだ。今離れるべきではないと思うのだが、このままここにいては音素乖離でルークは近いうちに消えてしまう。治療を受けなければ消える。アッシュとやりなおすこともできないのだ。
「貴様に心配などされなくても元気に決まっている。もう大爆発の心配もないそうだからな。残念だったなレプリカ」
「残念って…どうして?」
 ルークはゆるゆると首を横に振るしかできなかった。言葉が喉に詰まって声にならない。アッシュに伝えたいことはたくさんあるがどれも声にはならなかった。
 美しい月の下で憂いなく過ごしてほしいアッシュをこんな風に顔を歪めさせているのは自分だと思うとルークはつらかった。
「俺を乗っ取り損ねてさぞかし悔しいだろうが」
「…ない。そんなこと思ってないっ!」
 急に大きな声を出したことにアッシュは驚いていた。
「俺はアッシュの幸せだけを祈ってるよ!アッシュが幸せならっ!」
 そこまで言ったところでがつりと音がして床に倒れていた。頬が熱かった。アッシュに殴られたらしい。
「その名で呼ぶなっ!!」
 アッシュは自分が殴られたような顔で苦しそうにしていた。
「キサマにその名を呼ばれると虫酸が走る!」
 視線で人が殺せるなら今ルークはアッシュに殺されてるんだろうなと、ぼんやりとルークは思いながら見上げていた。
「レプリカなどに祈られなくても俺は幸せだ」
 そう口の端をあげて言うアッシュはあまり幸せそうに見えなかったが、ルークはアッシュを見上げて笑みを見せた。
「アッ…ルークがそう言うなら…俺は祈らないよ。幸せならいいんだ」
 名前を呼び間違えたことに腹を立てたアッシュに馬鹿にするなと腹を蹴り上げられた。本当にアッシュが幸せならこのまま消えてもいいんだと心が揺れた。本当に幸せなら…俺がいるから幸せじゃないなんていうのならやっぱりマルクトへ行くべきなんだろうとルークは思った。
『大好きアッシュ』
 想いを伝える言葉を何度も心の中で唱えた。



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 船に長い間揺られていたために地上に降りてからも身体がまっすぐに立たなくてふらふらと揺れてしまう。それをジェイドは悪い方にとったらしく眉を顰めていた。眼鏡が光って表情がよくわからないためにルークの恐怖心が煽られた。
 「ずいぶんと酷い様ですね」
 ジェイドはルークを出迎えてそう評した。一緒に来ていたガイのうろたえようときたら大変なものだった。
「ルーク…俺が抱き上げて連れてやろう。そんな身体で歩いちゃだめだ」
「ちがうー地面が揺れてるからだぁ〜〜!」
 ルークはふらりと揺れた身体を足を踏ん張って体制を整えた。
「思った以上に音素乖離が進んでいたのですね」
 何をもってジェイドがそう言っているのかがルークにはわからなくて首を傾げた。
「痩せましたね。薬は飲んでますか?」
 ジェイドがそう付け加えた。そんなつもりはなかったルークは久しぶりの船旅で疲れたかな?と笑った。
「そういえばジェイド。どうしてチキンじゃなくて人参味なんだよ?」
 ルークはここぞとばかりにジェイドへと苦情を述べた。
「あれなら絶対に忘れないでしょう。ちゃんと飲んでますよね?」
 ジェイドは念を押すように再度飲んでいるかと尋ねた。
「当たり前だろ」
「かわいそうに人参味の薬を飲まされるなんて」
 ガイはとんでもないものを飲まされた程の嘆きようだった。ガイは合わない間に一層過保護になっているような気がした。
「そうだろ…ガイからもいってやってくれよ。チキン味にするようにさ。もちろんいけてるチキンの方だぜ」
 そういいつつ並び歩いていると足がもつれて踏鞴を踏んだ。ガイがルークを受け止めてそのまま抱きかかえて歩き始めた。しかも横抱きときた。
「ガーイー恥ずかしいから降ろせよ」
「無理」
「無理ってどんな返事だよ。おろーせーー」
「こんな軽いのに降ろせるわけないっ」
 ガイの声が涙声に聞こえるのは気のせいだろうか?ジェイドといい二人に言われるということはそんなに痩せただろうか?どれだけイメージの中では丸々としてるのだろう。
「ジェイドの治療を受けたらすぐ治るんだろ?」
 ルークの問いにジェイドが申し訳なさそうに目を細めた。
「まだ完成してません」
「嘘…」
 ルークは絶望したという風にガイの腕を握り占めた。ジェイドが申し訳ありませんと頭を下げた。

「なーんてな。わかってたさ。それでもいいと思ってた」
 ルークは降ろしてもらうことを諦めたのかガイの首に腕をかけて安定する姿勢をとった。
「それでもさ、ジェイド。キムラスカのためにも親善大使としては少しでも長持ちしたいわけよ。それくらいならどうにかなってる?」
「ええ。そしてあなたのご協力があれば治療法も完成できると私は思ってますよ」
「さすがはジェイド」
 そんな話をしながらキムラスカ大使館を出て、迎えの馬車に乗り込んだ。
「ずっと徒歩でいくのかとちょっとだけ心配してた」
 あの頃みたいにさとルークは笑った。



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 屋敷から合法的にレプリカが消えた。これであれをみて頭が痛くなったり、声を聞いて不整脈を起こしたりそんな心配がなくなり平穏が訪れるはずであった。
 なのにどうしてこんなに虚無と脱力を感じているのだろう。

 長い間放置されていた中庭がレプリカが出立した途端に修復されて何事もなかったように花々が咲き乱れている。確かにあれ以降も何度か剣術の訓練という名を隠れ蓑にした破壊活動(ケンカ)があった。その判断は正しかったのだが…今では整然とした庭に嫌な思い出は蘇ることもない。

 机のうえに置いた錠剤の入った瓶をいったい俺は何時間見つめているつもりなんだろうか。レプリカが管理しなければいけないほどに食べすぎるという菓子ならば、届けてやらねばならないのではないかと思い至りいてもたってもいられなくなったためだ。
 アッシュは大きくため息をついた。
 手につかんだ瓶の中で錠剤がじゃらりと重い音をたてた。

 マルクトにいるレプリカにマルクト産の菓子を届けるなどというバカげた考えに自分でも嫌気がさした。どうすればそんな考えになるというのだ。

 手慰みに瓶をあけて一錠口に含んだ。菓子にしては不思議なキチン臭。チキン味かと思えば味はせず。食味は飴でもなくラムネでもない。
「こんなもののどこがうまくて喰ってたんだ?」
 食感が違うのかと噛み砕いてみればサイテーな味に慌てて吐き出した。
「レプリカってのは味覚が違うのか?薬みてぇな味じゃねぇか…」
 アッシュは己の言葉にひっかかりを覚えた。


 退院してすぐにあいつは何を要求した?

「俺の薬を…」
 ルークは遠慮がちに要求してきた。
「お前の薬をどうして俺が知ってるんだ。自分のものくらいちゃんと管理しろ。できないのならラムダスにでも頼むことだな」
 ルークは少し考えてから頷いた。本当にわかっているのかどうか怪しい程、躊躇して言葉を選んでいた。
「そうだね。もし見つかったら教えてよ…」

 ラムダスはなんて言ってた?
「アッシュ様が管理するとおっしゃっておいででした。他のものが口にしないようにと注意を…」


 口にしてはいけない薬を口にしたからか、頭が割れるように痛む。いや大半は吐き出したのだから大丈夫なはずだ。

 またあの時の声が聞こえた。
 『母上には心配かけたくないから秘密にしててアッシュ。屋敷のみんなにも!』

 ルークの透けた腕。辛そうに潤んだ碧の瞳…
 音素乖離
 今までどうしてこの言葉が脳裏をかすめなかったのか不思議なほどだ。アッシュ自身が苦しんだ症状ではないか。まだあいつはそれに苦しんでいたというのか?


 死にそうなほど頭が痛い。
「アッシュ生きてる?」
 生きてるさ、でも今は死にそうな程頭が痛い。ルーク…


「アッシュ大好き」


ああ…知っている。
聞いたことのない言葉が頭に反響した。だがその言葉はアッシュを不安定にする。

翠の瞳が濡れて揺れこちらを見つめていた。
泣くな。また俺はお前を傷つけたのか?

もう一度翠の瞳を確かめようと顔をあげたが、ルークはそこにはいなかった。幻を見ていたのか…?
お前が隣にいない…
それだけは現実だった。



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 音差乖離の治療行為とはいえまだ確立されていない治療法はそれは人体実験にも近いものである。ジェイドの説明ではあまり歓迎できないということなのだが、ルークはそれでもジェイドに協力するといって譲らなかった。
 数日前に受けた治療法はあまり芳しい結果を叩きだしてはいなかった。しかしルークへの負担は大きくまだ当分は寝た切りになりそうであった。
「ルーク、今日は入浴しようか?どうだ?入れそうか?」
 タオル類を抱えたガイがそう尋ねた。
「っていうか俺が入りたい」
 ルークはベッドにもたれたままガイに応えた。
 バチカルからこちらに来た時に入浴介助をしたときはその体の痩せぐあいにも驚いたが、それ以上に驚いたのは痣の痕であった。ルークはアッシュと喧嘩したとか剣術の練習をしてとしか言わないがたぶんアッシュとはうまくいってなかったのではないかと思われた。
 暴力を振るわれる程度に…薄くなった痣の痕をみて思わず付いたため息にルークが不安そうに見上げていた。
「どうかしたか?ガイ…」
「ん…今日のシチューに人参をな」
「入れたのか?!」
 浴槽内でお湯がはねたルークがこの世の終わりだというような表情でガイを見上げていた。
「入れるのを忘れたな…と思ってさ」
「それは入れなくて正解なんだぜ。あーよかった。超焦ったぜ。ガイのシチュー大好きなんだ」
「なぁチキンは入ってるか?」
「入ってますよ。ご主人さま」
 そんなに食べられないルークのためにチキンも他の具もガイは小さく切ってたくさん入れた。マルクト流シチューだとルークは思っている。小さく切って少しづつしか食べられない。大きく切ったものだと面倒になるらしく匙すらつけないのだ。
「ご主人じゃねぇのてぇの…」
「でもピオニー陛下に親善大使殿によくお仕えして、くれぐれもよろしくと言われてるんだぜ」
「そういえばまた親善大使なんだよなぁ…」
 ルークの顔が曇った。ふるふるとルークは髪の雫を飛ばすように頭を振った。
「冷たい。ルーク雫を飛ばすな」
「あーごめん」
 ルークは湯船に身体を沈めてぶくぶくと口から空気を噴き出していた。ふいに顔をあげる。
「そういえば、ガイ。ブウサギのお世話係はどうしてるんだ?俺につきっきりだとブウサギの散歩はどうしてる?陛下の大切なペット達のお世話はいいのか?」
「ああ…代わりの者がしてくれている。この間覗きにいったら元気そうだったよ」
 かわいい声でぶーぶーと輪唱するブウサギ達を思い出しながら、ルークは独り得心していた。あれらと比べられたらさぞかし痩せてみえただろう。
「あーあれと比べられたらなぁ…どれだけ俺のイメージって丸々してるのかとちょっと悲しくなってたんだぜ」
「何だ?」
「ここについてすぐにさ、ジェイドも陛下も俺をみて痩せた痩せたってうるさかっただろ?」
 実際にかなり痩せていたし、今はもっと痩せてしまっているのをガイは不甲斐なく思っている。
「ああ…ブウサギとは間違えないと思うが…」
「でもそういうイメージだったんじゃね?」
 そういいつつルークの瞼がとろりとねむそうに落ち始めた。
「上がるか?ルーク」
「あ、ああ…」




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 二人でよく来ていたからかナタリアの茶会では今日は椅子がひとつ開いたままになっている。それをみてアッシュは胸が酷く痛むのを感じた。
「今日はレプリカは来ない」
「ええ。でも気分だけでも一緒にと思いまして、席を用意しましたの」
「そうか…」
 ナタリアにそう言われてアッシュは何も言えなくなってしまう。冷静に考えれば他に客人があるのか?と聞くのがただしかったのだとアッシュは気付いてしまった。公式の親善大使としてマルクトへ行ったレプリカが不在なことはナタリアもよくわかっていることだった。
「お菓子もたくさん用意しましたのよ。どうぞ召し上がれ」
 恒例のナタリアとの茶会でいつものように菓子がふんだんに盛られた皿をみてアッシュはつきりと心臓が痛んだ。レプリカがマルクトに行ってからはなぜかレプリカはいないのに、レプリカが好きだとか嫌いだとか大騒ぎしていたものや、場所を見たりするとこういう症状が現れる。
 ひとつアッシュが前から好きだった菓子を口に頬り込んだ。甘くてうまい。だがなぜか砂を噛むような気分になった。あいつはちゃんと食べているだろうか?好き嫌いが多くてとても外になど出せないようなマナーだったのに出してしまった。
 こっそりとまた部屋で菓子を食っているのかもしれない。レプリカの好きなキムラスカでしか作れない菓子を届けてやらねばいけない。
 これはもっとうまいと思っていたのだが、記憶違いだったのだろうか?もっとうまい菓子を見つけて届けてやらねばいけない。キムラスカの名誉にかけて…
「また、溜息ですのね」
 ナタリアがつまらなさそうにそういうとカップから紅茶を一口飲んだ。アッシュはナタリアの言葉を聞き逃してしまったために慌てて聞きなおした。
「なにか言ったか?」
「いいえ…いえ。最近の貴方は溜息ばかりですわ。と言いましたの」
「そうだったか?」
「なにか上の空ばかりです。何か心配事でも?」
「いや、何もない。すまなかった」
 アッシュは慌ててカップに手を伸ばして冷めきってしまってた紅茶に口をつけた。レプリカが好きなフレバーティだ。レプリカの言う通りアイスでもおいしいらしい。冷めてもいい香りがしている。またつきりと痛みが緩やかに蓄積していく。
「まぁ。なにか考え事をなさってましたでしょ?白状なさいませ」
「な、なんだ?」
「また考え事をしてましたわね」
「す、すまない」
「許しませんわ。またルークのことを考えていたと正直に言ってくださればいいのに。私だってルークのことを思い出して今日はこの茶葉にしましたのよ。もちろんお菓子も」
「ああ…そうだな。あいつの好きなものばかりだと俺も考えていたんだ…」
「ええ…騒がしいと思うこともありましたが、いつも私をとても笑わせてくださいましたわ。ルークのお話ができるのはアッシュとおばさまだけですもの…もっとたくさんルークのお話をしたいのです」
「俺は…いつもイライラさせられてばかりで、レプリカがいなくなって清々したと思っていた。だが…気がつけばあいつの影を追っている…どこか欠けてしまったような気がするのだ…ナタリア。俺はやはりレプリカに何か奪われたままなのだろうか?それでこんな不安定に…」
 アッシュは両手で持ったカップの中の赤い液体を見つめたままで呟いた。赤い液体には紅い髪が映り込みゆらめいていた。
「いやすまない。愚にもつかないことを言った。忘れてくれ」
「まぁ。アッシュ。まるで恋をしているようでしてよ」
 二人の言葉は重なって不協和音を奏でた。アッシュを見るナタリアはほのかに頬を染めている。
「ナ・た・リア…今なんと?」
「まるでアッシュはルークに恋をしているようだと申し上げましたの」
「コイ?それはどのようなものだ?ナタリア…」
「まぁおとぼけになりますの?側にいれば気になって仕方ない。見えないと不安になるなんてそれはまさしく恋でしてよ。あなたはルークを愛していますのね。もちろん私もルークのことは未来の義弟として愛してましてよ。大丈夫でしてよ。安心なさってくださいませ。ライバルにはなりませんわv」
「それは…」
 アッシュは途轍もなくこそば痒い言葉を言われたことに反論したかった、その後に話が違う事を畳み掛けられナタリアの勢いに押されて何も言えなくなってしまう。
「会って確かめてみてはいかが?」
 アッシュが池にいる鯉のごとく口をぱくぱくとしているのをいいことにナタリアが綺麗な笑みでアッシュを焚きつけた。
「確かめる…?」
「ええ…わからないことがあれば確かめればよろしいだけじゃありませんか」
 ナタリアはアッシュが混乱していることに気づいていながら、あえて何をどう確かめるのかとは言わなかった。
「お出かけになるなら、ルークへのお土産をお願いしたいと思いますそれをお持ちになってくださいませ」
 すでに席を立ちかけていたアッシュはこくりと人形のように黙って頷いた。




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 なんだか落ち着かない気持ちでグランコクマの港に入港する船に揺られていた。絶え間なく流れ落ちる滝の音が落ち着きをなくさせるのだ。などと八つ当たりで滝を睨みつけた。アルビオールで時間短縮を図りたかったのだが、なにぶん公式訪問をするしかなかったために船によるゆっくりとした旅になってしまっていた。そのこともアッシュをいらつかせる一因であった。
 レプリカが港まで出向かえに来ているだろう。初めてファブレ邸であったときのように飛びついてくるような、あまりにもみっともない出迎えをするようであればタダではおかないとアッシュは港へと視線を向けた。紅い髪に白い上着の人影を己が探していることに気づいて、アッシュは舌打ちをした。
「まさかいつもの腹だしのみっともない格好はしていないだろうな…」
 自分が無意識に探してしまった事実を認めたくはなくアッシュはそのレプリカの姿を振り払った。
 グランコクマの象徴でもある流れ落ちる水と太陽の反射で金色の髪がいつもよりまぶしいガイの姿を遠目にアッシュは見つけた。ならばその近くにレプリカはいるはずだが、あいにく目立つ朱い髪は見つけられなかった。アッシュが辺りに気にしているのを護衛も察して辺りを警戒していた。アッシュはレプリカを探すことを諦めた。
 そのうち嫌でも会うことになる。しかしまさか出迎えにも来ないつもりなのか…その事実にアッシュは言い知れぬ苛立ちと落胆を感じた。
「アッシュ・フォン・ファブレ子爵遠いところをようこそお越しくださいました」
 見本のような上品な礼をしてガイことガイラルディア・ガラン・ガルディオスは手を差し出した。
「お忙しいなか出迎えありがとうございます。ガルディオス伯」
 アッシュは辺りを見回したくなる衝動を抑えてガイに負けないほどの丁寧な礼を返した。しかしガイにはばれていたらしく。ガイは何か気になることでも?と意地悪く尋ねてきた。
「いや、別にガルディオス伯」
「ガイと呼んでください。親善大使殿は明日の公式会見のために陛下からお召しがありまして…申し訳ありません。本日はお出迎えできませんでした。ルーク…親善大使殿も大層残念がっておいででした」
「そうか」
 アッシュの声に落胆が滲みでてしまった。それを振り払うように先ほどから座りの悪いコントを聞いているような気分になるガイの言葉づかいに対して小さな声で尋ねた。
「ところでいつもその…そのような呼び方をしているのか?」
 ガイがそのとき初めて険しい表情を緩めて、目元だけで笑みを浮かべた。唇が『公ではな』と動いた。
「それでは私の屋敷で親善大使殿もお待ちになっているはずです。向かいましょうか?」
 ガイは待たせている馬車へとアッシュを案内した。



 馬車に乗り込み二人になるとガイは格好を崩して心からの笑みを浮かべた。
「よく来てくれた。アッシュ。で、いいかな?屋敷では回りを気にせずに寛いでくれ」
「ああ…いつまでもファブレ子爵とか呼ばれ続けたらどうしてやろうかと思っていたところだ」
 アッシュは貼りついていた笑顔を外して不機嫌を隠さずにガイを見返した。ガイはアッシュの眉間の皺に指をやった。ますますアッシュは不機嫌そうに皺を深くした。
「やっぱりそうするとアッシュだなぁと思うよ」
「どういう意味だ…」
 楽しそうに笑うガイに反論は諦め、アッシュは溜息をついた。
「それにしても急に訪問だなんて何かあったのか?」
 アッシュはカーテンで見えない外を見るように横を向いた。
「何かないと来てはいけないのか?」
「そんなことはないさ。大歓迎だ」
「本当はアルビオールで少し顔を見に来るだけのつもりだったのだが…そうもいかなくてな」
 アッシュのしだいに覇気のなくなっていく言葉にガイは驚いた顔をした。
「アッシュが怖い顔をしているからルークに危害を加えるなら会わせないでおこうかと思ってた。でもそういうことでもなさそうだな」
「危害とはなんだ。失礼なことをいうな」
「俺はルークを昔から知っているし、今も同じように世話をしてるんだぜ。わかるさ」
 アッシュは苦虫を噛潰したように口元を歪めた。
「屑がっ…まだ人に世話を焼かせているのか?」
「あーそういう風にとるとはね。会うのやめといたほうがいいじゃないのか?アッシュ」
「俺はあれにあって確かめねばならないことがある」
 アッシュは己の拳を見つめていた。車輪が石を踏みしめる音だけが規則的に聞こえていた。唐突にそれは止まり、馬車は屋敷の正面玄関の前で止まった。止まったままで扉が開かない。アッシュは不信そうにガイを見上げた。
「会うなり喧嘩しないのなら会わせてやるさ」
 アッシュにとっては覚えのある冷たい視線でガイは言う。
「まさかそんな大人げないことを…」
 知らずとアッシュの声が子供のころに戻ったように震えた。ガイの信頼を失うことは今でも怖いと感じるらしい。
「したんだろ?ファブレ家の庭が破壊されたって聞いたぞ」
「屑が…余計なことを」
 ガイがふっと笑みを漏らして緊張した空気を解してくれた。アッシュはバツが悪いとばかりに視線をそらせた。
「ペール経由だよ」
 ガイが呆れたように溜息混じりに言った。アッシュがしまったと思って顔を覆ってももう遅い。
「まぁここで缶詰というのも俺が嫌だからとりあえずは屋敷へと案内する」
 アッシュは思わず身体から力が抜けた。このまま追い返されたらどうやって忍び込もうかとシュミレーションをしかけていたことを少し反省した。
 使用人は少ないのか屋敷の中の廊下は静まりかえっていた。入ってすぐのシガールームへと案内された。ガイはここでどうやら最終審判を下すつもりらしい。
 小さなシガールームからは見慣れない花が咲き乱れた庭が望めた。ホド風の箱庭のような庭園だった。
「あの痣はアッシュだろう?」
 アッシュはガイのストレートな質問に答えられない。旅立つ前日に事故とはいえ顔に痣をつけた覚えたあった。到着までの間に痣は消えなかったらしい。こくりと首を縦に振るしかできなかった。呆れたように溜息をつかれてアッシュはいたたまれない気分になった。
 シガールームだからかタバコでもふかして間をごまかしたい気分になった。沈黙だけが流れる。あのレプリカのせいだとアッシュはまた八つ当たりしたい気分になった。
「あいつが俺の視界をうろうろするとどうしようもない衝動的なものが俺を動かす。レプリカがいなくなってやっと平穏が訪れたと思ったのに、あいつの影を探してる。きっと俺の欠けた分をあいつが持って俺はいつまでも欠けたままで不安定だ。ナタリアにそう聞いたら確かめてこいと言われた。だから俺はレプリカにあって確かめなければいけない」
「何を確かめるんだ?」
 ガイは静かに尋ねた。
「俺の欠けたものが何なのかを…」
「ナタリアもそう言ったのか?」
「ナタリアは…それは…『こ、こ…い』なのだと。それであるのかを確かめてこいと言った。どうやって確かめるのかは聞かなかった…な…」
 改めて口に出すとなると気恥かしい言葉であった。言っていてアッシュは困惑した。方法を聞いてくるのを忘れていることを今ごろ気づいた。レプリカに会わなければいけないという衝動に突き動かされてここまで来てしまった事実に気づいた。
「『恋』か…さすがナタリア」
 ガイはきっと呆れた顔をしているだろうとアッシュは耳まで赤くなるのを自覚した。少しだけガイを覗き見たらガイは優しい瞳で頬杖をついたリラックスした姿勢でこちらを見つめていた。
 アッシュはその光に祝福されたようなガイが穏やかなに笑む表情に、久方ぶりに穏やかな気持ちになれた気がした。




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 ガイの案内により応接室へとアッシュは向かった。
「遅い〜〜!」
 部屋に入るなりレプリカの叱責の声が聞こえた。ルークは子爵の正装でソファに腰掛けていた。腹だしのいつもの姿よりはみられるものではあったが、似合うというよりも洋服に着られている。
「待ったか?」
 ガイはソファに座るルークへと歩み寄っていく。ソファに腰掛けたままでルークは顔を輝かせてアッシュを見た。
「久方ぶりだな。元気にしていたか?」
 とはいうもののまだ半月たったか経たぬかの月日しか流れていない。言葉は取り繕ったものだったが眉間の皺が深くなるのは致し方ないだろう。レプリカはなぜか座ったままだ。続けて屑がっ!と喉から出そうになったが、扉の前に立っている使用人の眼があるのでアッシュは言葉を飲み込んだ。
「座ったままでごめん。ア…ッシュ…」
 ルークは『アッシュ』の名を呼ぶのに躊躇した。アッシュはルークの葛藤など素知らぬ顔をしてそう呼ぶことの許可を込めて頷いた。
「どこか悪いのか?」
 ルークは緩く首を横に振った。
「陛下から戴いたブウサギが寝ちゃってさ…」
 そういうルークの膝の上に子ブウサギが気持ちよさそうに眠っていた。その足元にも子ブウサギがまとわりついていた。
「なんだ?それは?」
「だからアッシュが来てくれるから陛下がアッシュと俺に、ブウサギをくれたんだ。兄弟なんだって。アッシュはどっちがいい?ちょっと赤毛の珍しい種類だって」
「出迎えにこれない用とはこれなのか?」
 アッシュがにこにことして立っているガイに尋ねた。アッシュの頬の筋肉が強張る。
「ああ…どうやらそうらしいね。陛下からブウサギを賜るなんて名誉なことだ。アッシュ。大切に育ててやってくれよ。それも赤毛かぁ」
 ガイが感嘆の含みをもって言う。それほどまでに珍しい種ということなのだろう。アッシュは無言のまま小さなブウサギを見下ろしていた。
「せっかくだが…兄弟のブウサギを離すのもかわいそうだ。お前が面倒を見るといい。そこにプロもいることだしな。安心だ」
 アッシュはガイを見て、どこかしてやったりと言うように笑みを浮かべた。ガイはルークの向かいのソファをすすめた。
「そういうなよ。アッシュ…ともかく座ったらどうだ?」
「えーせっかく陛下がくれたのに…」
 ルークは残念そうに言いつのる。
「それならさ、俺のをナタリアに譲るよ。二人で一緒に育ててくれよ。それがいい!な。ガイ。お勧めの飼育本があったらそれも一緒に持って帰ってもらおうぜ」
「イラネェ…」
 アッシュは横を向いて小さく呟いた。何?と聞きとれなかったルークが首を傾げてアッシュを見上げた。
「ナタリアからお前に土産を預かっている。お前の好きな菓子ばかりの詰め合わせだそうだ。食べすぎてガイに迷惑をかけないようにしろ」
 アッシュはずっと抱えていた箱をテーブルの上に置いた。ルークの顔が輝いた。
「ありがとう!アッシュうれしい」
 ルークは手を伸ばすが、ブウサギが邪魔でテーブルまでは手が届かなかった。ガイがそっと手を差し出し箱をルークへと手渡した。ルークは綺麗にかかっていたリボンを手早くほどきそのあたりへと投げた。箱の中に並んだ菓子を見てますますルークの笑みが輝く。
「うお〜俺の好きなクッキーvうれしいなぁ。おお!ナタリアのとこで食べたお菓子だ〜vvv」
 ルークは早速一枚手に取ると口へと運んだ。子供のようにぼろぼろと砕けた欠片を撒き散らかしている。口に入っているより落ちているほうが多いのではないかと言うほどだ。その欠片を足元のブウサギがうれしそうに口にしていた。
「ルークあんまり食べると食事が食べられなくなるぞ」
 アッシュの屑がっ!の前に、ガイの注意が飛んだ。襟もとについていた大き目の欠片をガイはつまむとそのまま己の口へと持っていく。自然な流れ作業のようなその二人の姿にアッシュはまた胸に鋭い痛みが走るのを感じた。
「あ…ああ…うん。大事に食べるな。ナタリアにもお礼を言っておいてくれな。アッシュ」
 アッシュは頷くだけでテーブルの上に並べられいく茶器を見ることでどこか性的な香りを感じる二人から視線を外した。茶器を並べるのに時間はそうかからない。使用人はガイが後を引き継ぐとしずしずと慣れた様子で部屋を辞した。
 使用人が出ていくときにうろうろとしていたブウサギも一緒について出てしまった。
「あっ!ガイ。逃げた」
 ルークが目ざとく見つけてガイに声をかけた。
「仕方ないな…屋敷中を荒される前に捕まえてくる。二人だけでも大丈夫だよな?」
 部屋に入ってから怖いくらいに静かなアッシュに向かってガイは念を押した。
「ああ」
 アッシュはまた頷くだけだった。ガイが扉を閉める音の後は茶器の立てるかすかな音だけが部屋に流れた。二人きりになると沈黙が流れた。ルークが寝むそうに瞼を瞬かせていた。二人なのに眠いというのだろうか?こちらの緊張も知らずにルークはこくりと船を漕ぎかけてはっとしたように顔をあげた。手の中の箱の無事を確認してから何事もなかったように箱を差し出した。
「アッシュも喰う?」
「アッシュもこれ好きだろ?」
「いや…いい。お前が食べるといい。そのために持ってきたんだからな」
 ルークは華がほころぶような笑みで頷いた。
「じゃあそうする」
 ルークは大事そうに箱を引き戻すと蓋を閉め横に置いた。一息つくとまた眠そうに瞼が落ち始めた。これ以上眠らせてなるものかとアッシュは声をかけた。
「少し痩せたか?もし親善大使の仕事が多いようなら明日ピオニー陛下に会うときに進言しておいてやる」
 アッシュはここに入ってから気になっていたことを尋ねた。かっちりとした正装のためわかり難いが少し痩せているようだと思っていた。やはり仕事が忙しいのだろうか、それともマルクトの風土が合わなかったのだろうか?
「だ、大丈夫!仕事はそんなに多くないし!むしろいつも気を使ってもらっているから!アッシュがそんなこというのってなんだか変な感じがする…なんでみんなしてそういうのかな?そんなに俺って丸々したイメージなのか?」
 ルークは膝の上にいるブウサギを可笑しそうに見下ろした。
「俺ってこんな感じのイメージ?」
 ルークは首を傾げた。レプリカに対するイメージと問われ、アッシュは確かにその膝の上のブウサギに重なることに気がついた。幸せそうに温もりに包まれて何の苦労も知らずに惰眠を貪りいつまでも幸せそんなイメージだった。しかし目の前にいるレプリカは全く正反対で今にも消えてしまいそうなほどに儚げだった。
「そうだな。丸々として幸せそうに惰眠をむさぼっているイメージだったな」
 アッシュは知らずと過去形になることにも気付かずに溜息を漏らした。先ほどのガイと二人並んでいるときはまだ昔のイメージに近かったのだ。二人の仲睦まじい主従以上の空気まで思い出してアッシュは眉間に皺を寄せた。
 レプリカが溜息をつきつつブウサギを撫でつけていた。よく眠っているブウサギはそれでも目を覚ますことはなかった。アッシュの中に不意にレプリカに触れたいという要求が頭をもたげた。いつもならレプリカが飛びついてくるのが常であったが、レプリカはブウサギを抱きかかえたままソファから一歩も動いていない。その事実にまた眉間の皺が深くなってしまった。
「どうしてアッシュが怒ってるんだよ…俺が怒っていいところだよな?さっきからアッシュが変だ」
 レプリカはアッシュの眉間の皺が深くなったことを察して身体を小さくしていた。そのことにもアッシュはいらつき始めていた。
「どう変だというのだ?」
 アッシュはこみ上げる衝動を抑えるために低くなる声に驚きつつ尋ねる。ますますレプリカが委縮していた。
「だって…優しかったり…あっ!親善大使だから優しいのか?」
 わかったと一人合点して喜ぶレプリカにアッシュは足音も荒く立ち上がった。
「貴様は!俺が見も知らぬ親善大使にわざわざ菓子を持って、会いに来るとでも思っているのか?!」
 びくりとレプリカはソファの上で覚えのある脅えた表情で小さくなっていた。
「あ…ごめんなさい…」
 ブウサギが驚いてその膝の上から飛び降りて走り去った。アッシュはそのままの勢いでレプリカの横に立ちその体を抱きしめた。思った以上に痩せた身体は想像していたよりごつごつとして抱き心地が悪かった。硬直したままレプリカは震える声で言いつのる。
「ア…アッシュ…??バチカルで何かあったのか?俺、何も知らなくて…」
 ガイには穏やかな甘えた表情を見せていた。今は緊張のあまりに震えて腕の中で小さくなっていた。アッシュはファブレ邸のときのようにレプリカは無邪気に慕い寄り添ってくるもだと無条件に思い込んでいた。緩やかな拒絶にも似た委縮。
 欠けたものはもう二度と還ってこないことを改めて思い知った。
「今まで済まなかった…俺は失ったものは還ってこないことを知っているのに…また失ったのだな」
 アッシュはその腕を解き放った。恐れをその瞳に浮かべているであろうレプリカを見ることはできなかった。足早に部屋を出た。
「アッシュ?!!」
 テーブルにあたったのか茶器が落ちる派手な音がしたが、そのまま扉を閉めた。
「待って!アッシュッ!!」
 扉の向こうからレプリカの呼びとめる声が聞こえた。だが、レプリカは追いかけてはこなかった。




++++++++++++++++++



 そのままガイの屋敷を出ても行くあてがなく、他国を勝手にうろつくわけにもいかない。アッシュはガルディオス邸を出ることもできずに回廊から庭を眺めていた。ゆっくりと廊下を歩いたにもかかわらずレプリカは結局追いかけては来なかった。追いかけるどころが扉が開くことさえなかった。
 扉の開閉音で顔をあげると庭の向こうに見えていた応接室の扉が開いた。ガイがルークを抱き上げて移動していた。ルークは甘えるようにガイにもたれかかっていた。その表情は窺うことはできなかったがきっと子供のように蕩ける様な表情で甘えているのだろう。
 アッシュは音がするほど歯を噛みしめた。失ったものは二度と戻っては来ないのだ。たとえそれが己の一部だとしても…
 両手にはレプリカの体温が未練がましく残っていた。
「今日はご加減がよろしいようですな…今からお部屋にお花をお持ちしようと思っとりました。気に入られた花がございましたかな?」
 庭から声をかけられてアッシュは顔をあげた。
「これはアッシュ様。申し訳ございません。人違いでございました」
 ペールが覚えているよりもつるりとした頭を下げていた。
「いや構わぬ。ここでも庭師をしているのか?」
「ええ…といいましても隠居の身でして、趣味で少々いじらせていただいている程度でございます。ルーク様のお部屋に毎日お花をお持ちするのが大きな仕事でございます。アッシュ様もご希望があればそのようにさせていただきますが?」
「いや…それより先ほどの、ルークの体調はよくないのか?」
 ペールは困った様子で頭を下げていた。毎日とペールは言ったではないか。とアッシュは庭の花々を見返した。何も切り花にしなくても見れるものを母上の部屋と同じように毎日部屋へと届けていたと。
「まことに失言失礼いたしました。私のほうからは申し上げることは出来かねます。ご本人にお確かめられては?ルーク様へのお部屋のお花をお持ちいただくことをお願いしてもよろしいですかな?」
 アッシュは優しい老人の言葉に甘えて差し出された花に手を伸ばした。昔から得体のしれないところがあったが、本当にこの老人恐ろしいまでに気が回る。
 ガイが消えていった方向へ回廊を進む、教えられたルークの部屋へとジェイドが入っていくのが見えた。慌てていたためだろうか少し開いたままの扉から中の会話が漏れ聞こえてくる。
「眠るのは嫌だ!アッシュのいる間だけでいいから!もう少しだけ大丈夫だから!」
「何を言ってるのですか?あなたは自分のことを理解しなさすぎます。一人で立つこともできないほどに弱っているのに何を言ってるんですか」
 一人で立つこともできないほど弱っているとは誰の話だ?思わずアッシュはそのまま立ち止まってしまった。
 アッシュは部屋の前で扉に手をかけたまま入るのを躊躇する。
「次はいつ会えるかわからないんだぞ。アッシュのいる間だけでいいから!」
「ルゥク。」
 ガイのいつものわがままを注意するときの呼び方だ。
「だって…また怒らせた。そのまま離れるのは嫌だ」
「俺が引きとめておいてやるから安心しろ。大丈夫」
「嫌だ!だってアッシュと一緒にいたい!」
 どきりと鼓動が跳ねた。
「一緒にいれば傷つくばかりでしょうに、あなたの顔を見ていたところで思い出すような人でじゃないでしょう。諦めなさい」
「アッシュは思い出したりする必要なんかない。俺はアッシュとやり直すんだ。だから!」
 やり直すとは何をやり直すというのだろうか?無くした記憶はレプリカに関してのみだと言う。レプリカとの間に何があったと言うのだろうか?レプリカはそのことを一度も言わない。不整脈は酷くなるばかりで心臓が痛い。
「だからもアッシュもありませんよ」
 ジェイドがルークをベッドに押さえつけていた。
「ヤダ!ヤぁ」
 ばたばたと振りまわされている腕がぱたりと力なく落ちた。抵抗する声が涙声になり次第に力がなくなっていく。
「何をしている?!」
 アッシュはあまりの乱暴な方法に思わず扉を押しあけて中へ飛び込んでいた。ガイの肩がぎくりと強張るのを目ざとくアッシュは見てとった。見られてはまずいところだったらしい。
「マルクトは親善大使に無体を働いくのか?」
 アッシュはベッドの上でぐったりとしているルークを庇うように立った。払い退けられたジェイドが嫌味な笑みを浮かべ一触即発の空気を醸し出す。ガイが間に慌てて割って入った。
「アッシュ…そういうのじゃない」
 ルークはベッドの上で起き上がろうと身じろぎをする。アッシュがベッドの上に放り投げたために散った花が甘い芳香を放っていた。花を散らされたベッドに横たわる姿はまるで気狂いで死した女性の名画のようだった。
「ア…アッシュ、俺大丈夫。元気…だ」
 アッシュの方へと腕を伸ばしたままそのまま崩れるようにおち、クッションに受け止められていた。ルークはそのまま瞼を開けることなく意識を失ったようだった。
「何をしたんだ?」
「眠っただけです。今日はこれ以上起きていられなくなったというだけのことです」
 ガイはルークに歩み寄り掛布を欠けて楽な姿勢に整えてやっていた。その手て散らばった花をガイは束ねる。
「どういうことだ?お前らはルークに何をしたんだ?」
「何も」
「何もだと?何もしなくてどうしてこんな…」
「何もできないからこうなのですよ。不甲斐ないことに」
 ジェイドが自嘲し眼鏡の奥の瞳はそのガラスの反射によって読むことができなかった。
「音素乖離…」
 否定し続けていた言葉をアッシュは思わず口にしてしまった。
「ああ、ご存知だったのですか」
 ジェイドがなんてことないように言いながら、眼鏡を治した。
「まさか…本当にレプリカが…?」
「ええ。それはもう貴方には関係ないのでは?マルクトは大変なお荷物を背負わされました。キムラスカにしてやられましたよ。音素乖離で消えそうなレプリカを渡されていながら、キムラスカには恩を売られてしまった。もし彼に何かあればマルクトの責任となるわけです。そうすればキムラスカとの和平は終わりですか?」
 自嘲するような口調でジェイドは言った。
「なんだと?」
 喧嘩を売られたような物言いにアッシュはジェイドの肩を掴んだ。
「ああ、大丈夫です。そんなことにならないですよ。そのために私が忙しくさせられてます」
「では治るんだな」
「新しくレプリカを作成すればいいだけのことですから。安心してください。和平は安泰です」
 アッシュはあまりの言葉に思わずその肩を掴んでいた手を強く引いた。しかしジェイドに軽く払われてその腕は宙を切った。
「な、何を言っているんだ?レプリカを創るだと?」
「ええ。マルクトは親善大使を失うわけにはいかないのですよ。あなたも事の重大さはわかっておいでだと思いますが?」
 ルークにつきそうガイにアッシュは救いを求めるように見た。まさかそんな計画が進んでいるとは思いたくなかった。ガイは痛ましいものを見るようにジェイドを見つめていた。その顔色は青ざめていた。ガイも知らない話だったということだろうか?それが真実味を増大させる。
「ふざけるなっ!ルークの姿が一緒ならいいのか?たとえ屑でもそんなモノみたいな言い方をするのは許さねぇ」
「貴方がそういう扱いをしているのに?」
「!!俺はそんなことっ!」
 俺のレプリカなのだから当然の権利だと言いかけてその言葉をアッシュは続けられない。取り戻さなければいけない己の一部だと思っている。目障りなレプリカが消えればいいと思っていたが実際に目の前にいなければ探している己を知っている。ましてや現在に至っては会いに来ているというのに、消えられては困るのだ。新しいレプリカが手に入るならなんの問題もないように思う。だが…ルークがいなくなって、新しいレプリカを与えられたらそれでいいというわけではないような気がした。

 欠けた一部だからレプリカが必要というわけではないのだろうか…わからない。それを『コイ』というのだとナタリアはいい。ガイはとても優しく背中を押してくれたように思う。
 
 
「そんな…ことではない…俺は俺は…ルークが…」
 アッシュは混乱して視線が定まらない。目の前に立つジェイドとベッドで眠るレプリカを交互に見た。これがいなくなるということは認められない。それだけは確かだった。
「ゆっくりと考えるといいでしょう。行きましょうガイ」
「え?」
 ルークの苦しそうな正装を緩めていたガイが驚いた表情でジェイドを見上げた。
「しかし…ルークをこのまま独りには…」
「大丈夫です。アッシュがついていてくれますよ」
「ならアッシュ、ルークの服を脱がせてやっておいてくれ。上着だけでいいからさ」
「ガルディオス伯行きますよ」
 さっさと部屋を出ていくジェイドを追うようにガイが慌ててそういいながら出て行った。
「おい!どうして俺が!」
 アッシュの焦る声にこたえたのは扉の閉じる音だけだった。




++++++++++++++++++++




「どうして俺が…」
 アッシュはベッドで眠るルークに向き直った。蒼い顔色で眠るルークの息は浅く確かに襟の詰まった服は苦しそうに見えた。
 アッシュはしばらく眠るルークを見つめていたが、時間ばかりが過ぎる。ルークが苦しそうに何度も喉元に手をやる。
「仕方ない」
 ホックをはずし腕を抜くために上半身を抱き上げた。あまりの軽さにアッシュは腕の中のルークをとっさに視認してしまった。あの時のように消えかけてはいないかと不安になったためだった。軽いがまだ確かに温度を伴ってレプリカはそこにいた。
 乱暴にならないように心掛けて上着と取り除いた。上着の下に現れた身体はシャツに隠されてさえ重さに比例して薄いことが分かった。
 少し力を入れるだけで砕けてしまいそうな脆さがあった。消えてしまう…俺のレプリカが消えてしまう。その言葉を実感した瞬間にアッシュは眩暈を覚えベッドの脇に腕をついた。
 腕をついたはずみでベッドのスプリングがたわみ大きく揺れた。
「う…ん…?」
「ア…アッシュ?」
 吐息のような呼びかけに顔をあげるとルークの翠の瞳がアッシュを映していた。その瞳には驚きと喜びが浮かんでいた。
「大…丈夫か?顔色がよく…ない…」
 心配そうにアッシュを見上げたルークの顔色の方が青白い。
「お前の方がよくないだろうが!」
 起き上がろうともがくルークの上に覆い被さりその動きを抑え込む。倒れてきたと思ったルークは焦った様子で声をかけその頭を手で抱いた。慌てる様子のレプリカが愛しくて仕方なかった。
「お…おい?アッシュ?大丈夫かっ!」
 愛しい。
 足りなかったものがかちりと嵌り込むのがわかった。
 ルークが愛しい。
 その言葉に辿りつくまでにとても遠回りした。アッシュの喉の奥で笑いがもれ抑えきれない。
「…?アッシュ…?」
 ルークがアッシュの震える肩を抱いた。
「どうしたんだよ?泣いてるのか?」
「誰がっ!」
 アッシュは顔をあげた。目の前にルークの優しい色を湛えた翠の瞳があった。細い指が両の頬に触れた。濡れた感触がその指によって拭われていく。
「そっか…」
 ルークはふわりと辺りに漂う芳香のような笑みを浮かべた。緩やかな弧を描く唇に誘われてそれを重ねた。温かかった。
 まだここにいる。
 まだ消えていないことをもう一度確かめた。徐々に熱を持つことに名残惜しく思いつつ、離れて二人同時に吐息をついた。
「…アッシュ?」
「お前を愛おしいと感じた。それがたぶん俺の求めていた答えだと思う…」
「答え?」
 ほのかに紅潮させたルークの頬をアッシュは撫でた。
「ああ、俺は答えを探していた。お前は俺とやり直したいと言っていたな」
 ルークはまだ起き上がることができずにいたが、クッションにもたれたままこくりと頷いた。
「お、俺アッシュと一緒にいたいんだ。今はアッシュに嫌われてもきっと初めからやり直したらまた仲良くできるはずだって」
 ルークは意気込むように一息で言った。
「ああ…そうだな」
 アッシュはゆっくりと頷き、ルークの頬から前髪を掻きあげるように頭を撫でつけた。ルークは猫のように目を細めてその手に頭をすり寄せた。
「夢なのかな…?アッシュが優し…」
「失礼な」
 アッシュは手を頬へと戻しその頬を抓った。
「いひゃい…」
「夢か?」
「違う…痛いし、だってアッシュがここにいる。ちゃんと重いし…」
 抱きしめるようにルークに乗り上げていたアッシュは慌ててその身を浮かせた。ルークは離れていくアッシュを求めるように両腕を広げ持ち上げた。
「アッシュ…ここにいて」
 ルークの言葉の後半はかすれて消えていく。ルークの瞼がゆっくりと落ちては何度も瞬きを繰り返し落ちていく眠りに抵抗していることが見て取れた。
「ここにいる」
 アッシュは差し出された手をとって握りしめた。ルークは安心したようにゆっくりと瞼を閉じた。
「ごめん…眠い……すぐに…元気になるから…待」
 言葉の途中でそれは規則正しい寝息と変わった。
「ルーク?」
 アッシュは不安が押し寄せてきたが、その寝顔が穏やかなことに揺り起すことはできなかった。繋いだ手と手が暖かい。
「おやすみ、良い夢を」



+++++++++++++



 目を覚ますと目の前に紅い髪が広がっていた。顔をあげるとベッドに寄りかかるようにしてアッシュが眠っていた。その手は己の手に繋がっていた。温かい…思わずその手を包み離したくなかった。
 眠るアッシュの眉間には見慣れた皺はなく。とても穏やかな表情で眠っていた。ルークは飽きることなくその顔を眺めていた。
 夕日に照らされた紅い髪は夕日に負けないくらい綺麗に輝いていた。
 アッシュがルークのここにいてほしいという望みを叶えてくれたことがうれしくて仕方なかった。繋がれた手の甲に唇を寄せた。

「アッシュ 大好き」
 ルークは自分で言っておきながら静かな部屋に思いのほか響いた声に恥ずかしくなり頬を染めた。
「どさくさにまぎれて何言ってやがる」
 ルークは身体をすくめてゆっくりとアッシュのいる方を見た。アッシュはいつのまに起きたのか、空いた左腕でベッドの上で頬杖をついていた。眉間に皺があったが、その瞳は優しい光を孕んでいた。
「アッシュ…」
 ルークは知らずと肩の力が抜けて、頬が熱くなるのを感じた。アッシュはルークから視線を外さずににやりと口元を歪め、その繋がった掌を引き寄せて先ほどルークが唇を寄せたのと同じように唇を寄せた。
「あっ…しゅ…」
 ルークの鼓動が高鳴る。驚きや喜びやアッシュに対する敬慕いろんな感情が溢れてくるのをルークは止められなかった。
「くそっ!どうして泣くんだ!」
 アッシュが忌々しげに言い放ち、うつむいたルークを覗き込んだ。
「そんなに嫌だってぇのか?」
 アッシュは繋いでいた手を解こうと振ったのに、ルークは慌ててその手を握りしめた。
「うれしっくて…わかんねぇけど!な…んか…なんかっ…」
 ルークはますますしゃくりあげて泣きだした。
 アッシュはベッドの上に乗り上げてルークの頭を抱きかかえた。ルークもそれに甘えてアッシュにしがみついた。
「アッ…シュ…大好きぃ〜〜」
 嗚咽混じりにルークは何度も繰り返した。
「うれしくて泣くってどういう……わからねぇ…くそっ!!もう泣くな」
 アッシュは子供をなだめるようにその背中を軽く叩いてやった。

「泣いてる暇なんてねぇんだ。お前の音素乖離を治す方法を探さねぇと……」
「治るよ」
 きょとんとしてルークがアッシュを胸元から見上げた。
「何?」
「ジェイドが治療法見つけてそれの治療中なんだ。それで今あんまり調子がよくなくて…アッシュに心配かけたかも…?」
 アッシュの腕の力が強くなってルークは腕中でばたばたを暴れるしかなかった。
「なにぃーーーっ?!!」
 ルークが見上げるとアッシュの唖然とした珍しい表情を見ることができた。
「心配してくれてありがとう、アッシュ」
「心配なんぞしてねぇ。眼鏡がお前のレプリカを創るとか言い出すからっ!」
 耳まで朱に染めたアッシュは慌てて言いつのった。アッシュは部屋のジェイドが出て行ったドアを睨みつけた。

「なぁ…俺はいていいのか?」
「お前がいないと俺が困る」
 アッシュは横をむいたままでもはっきりと言い切った。夕日に照らされたアッシュは朱に染まっていた。
「くだらねぇこと考えてんじゃねぇ」
 アッシュの手がルークの髪をぐしゃりと掻きまぜた。







+++END+++



お詫び:日数計算というか日数感覚をこちら時間感覚でやってしまったためちょっと時間の進み方が変なところがあります。一か月が60日近くって思った以上にやりずらい…
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